子守りをやってみよう
「じゃあ、またね。
アリーナさん。クリフトさん」
所変わって、ここは北方サントハイム聖王国城市。
遠く離れたブランカの山奥の村とは違い、こちらでは雨も一切降らず、抜けるような青空が緑煙る大地を今日も見守っている。
愛する夫の人知れぬ悪戦苦闘もいざ知らず、久方ぶりの外出という息抜きにすっかり癒されたシンシアは、見送りしようと城門まで出て来たサントハイム新王クリフト、王妃アリーナ夫妻に感謝をこめて深々と頭を下げた。
「久し振りにふたりに会えて、本当によかった。やっぱり、優しい人間のたくさんいるこの国は素敵。
いっぱいお話出来て、わたしの身体の具合も大丈夫だって言ってもらえて、とってもうれしかったです」
「あっ」
アリーナは驚いて声をあげた。
シンシアがぺこりとお辞儀をした拍子に、背中に背負っていた革袋の口からばらばら、と中身がこぼれ落ちたのだ。
「ご、ごめんなさい!」
シンシアはあわててしゃがみ込んだ。
「さっき、村に持って帰るお土産を全部入れたんだけど……。袋の口をちゃんと締めてなかったみたい」
「シンシアさんらしいですね」
クリフトが笑いながら膝を折り、足元に散らばったこまごました土産物を拾うのを手伝ってやる。
「それにしてもこれは……、小さな木材や花の種ばかりですが。
これが、御子息とふたりきりで留守番なさっている勇者様へのお土産品?」
「ええ、そうよ」
「せっかくならばサントハイム特産の白パンや、サラン漁港の獲れたての魚をお持ち帰りになられれば宜しいのに」
「ありがとう。でもめずらしい食べ物より、あの子はこっちの方が喜ぶの」
シンシアはにこにこして言った。
「この木材は、サントハイムだけに生える白樺の木。これを使ってあの子が赤ちゃんに丈夫な積み木を作ってくれるわ。
そしてこの種はキングサリ、クラブアップル、スモークトゥリー。山奥の村には生えていない、サントハイム固有の花たちの種よ。
赤ちゃんが生まれてからずっと、あの子は村に新しい花を植えたいって言ってたの。村にも緑が戻り、ずいぶんたくさんの花が咲くようになったけれど、まだまだわたしたちの子供の頃のようには行かないわ。
新しく生まれた命に、新しい世界を見せてあげたい。
わたしたちの赤ちゃんがいつか大きくなった時、かつての悲しみをつたえるべきなのか、そうしないほうがいいのかまだわからないけれど、
今ここにあるのは、あの時とは違う新しい世界なんだってことを、あの子は父親として息子に知らせたいのかもしれないわ」
「そうですか」
クリフトは蒼い瞳を優しく和ませた。
「あのお方は誰よりも、命の価値を知っていらっしゃいます。
きっと、素晴らしい父親におなりでしょう」
「なによ、ずいぶん他人事みたいに言うのね」
アリーナが隣でぷっと頬をふくらませた。
「いい、ひとのことばかり気にかけるんじゃなくて、お前だってそうならなくちゃいけないのよ。わかってるの?クリフト」
「そ、それは……、勿論」
「えっ」
シンシアは目を丸くした。
「それって、もしかして」
「ま、まだわからないのですよ!まだ」
クリフトは顔を真っ赤にして咳き込んだ。
「えー、ま、まだ到底皆様にお知らせするような段階ではないのですが、じつはこのところアリーナ様に微熱が続かれておりまして、そのうえご気分がすぐれないとおっしゃられ、
そ、それでその、宮廷医師がよもやと……」
「まあ、そうだったの?」
シンシアはぽかんとして、クリフトの隣で非常に元気そうに鳶色の瞳を輝かせているアリーナの顔を見た。
「わたし、ちっとも気付かなかった。
それなのに今日一日つきあわせてしまって、ごめんなさい。アリーナさん」
「大丈夫よ」
アリーナは小首を傾げて明るく笑った。
「微熱が続くのにはもう慣れたし、しんどいなって感じるのは日によってすごく波があるの。
それに、嬉しいって気持ちがしんどさを押しのけちゃってるから平気だわ。クリフトはまだわからないなんて言うけど、張本人のわたしが間違うはずないじゃない。
わたしは武術家なのよ。自分の身体にいつもと違うなにかがやって来た感覚を、見落とすわけがないわ。
これは間違いなくニンシンよ、ニンシン。下街言葉で言う、デキチャッタってやつ」
「ひ、姫様」
クリフトは気が遠くなりそうな顔をした。
「貴き王妃殿下ともあろうお方が、なんと下世話な物言いを」
「だったらお前こそ、自分の妃に対していつまでも姫様姫様って呼ぶのは止めたらどうなの?
わたし、もう姫様じゃないわ。お前は国王として妻のわたしを呼び捨てにしなきゃいけないんだって、口がすっぱくなるほど言ったでしょ。
ほら、呼んでみなさい。アリーナって」
「ア、ア、ア、アリ……、
あり、ありがとうございます、シンシアさん!お忙しい中、今日は来て下さってほんとうに嬉しかった」
シンシアの方へくるりと向き直って、クリフトは端正な顔にごまかし笑いを浮かべた。
「次はぜひ、勇者様もお子様もご一緒に我がサントハイムへ」
「ええ」
シンシアは無邪気に頷いた。
「次は、みんなで一緒にね。クリフトさんもアリーナさんも、それまで元気で」
「ええ!元気ならまかせておいて」
アリーナは片目をつぶり、手のひらでとんとんと自分の胸を叩いてみせた。
「王家のしきたりも、面倒な行儀作法もいまだに苦手だけど、いつも元気ってことだけは誰にも負けないわ。
なんなら今からでももう一度、お城を飛び出して腕だめしの旅に出かけたって構わないわよ」
「またそのようなことを……。どうか、ご無理はなさらないでください。
もう、貴女様おひとりのお体ではないのですよ」
言って、クリフトは頬を赤らめた。
「な、なーんて、まだそうと決まったわけではありませんけどね」
「また言ってるわ。お前って意外と往生際が悪いのね」
「当然です。残念ながら、わたしは男なのです。貴女様のお体にたったいま訪れている、静かでひそやかな変化のしるしがわからない。
だから、ただ怖い。見えないものがそこにあると知らされるのは、これ以上ないほど怖くて不安です。
そしてとても……、貴い」
クリフトの海のような蒼い瞳に、初めて幸福そうな光が宿った。
「命はそこにあるだけで、この世界中のどんな奇跡を集めたよりも貴い。
シンシアさん、あのお方に伝えて頂けませんか。わたしたち、「目」を持った親になりましょう。
立派な親にも、賢い親にもなれないかもしれない。
でも、大切なものの輝きを見失わないように、この目をいつも凝らしていたい。
生きとし生けるものが時におちいる迷いや苦しみをまっすぐに見つめ、決して目を逸らさず、我が子を愛という名の希望の光で照らし続けて行けるように」
シンシアはほんの少し戸惑ったように瞬きし、やがて頷いた。
クリフトさんは神様に仕えていた人だからかしら、時々、とても難しい言葉を口にする。
でもきっと、それはこういうことなのだろう。
子供をうんと大好きでいよう。
ずっとずっと、どんな時も大好きで大好きで、毎日身体じゅうの愛を使いきっちゃうくらい、力いっぱい大好きでいよう。
だってそれはなくならない。
空の青のように、太陽の金のように、雲の白のように、月の銀のように、大好きは無限にあふれ出て来るものだから。