子守りをやってみよう
……で?
愛してやまない新妻が出かけ、赤ん坊とふたりきりになった勇者の少年は、五分も経たぬうちにさっそく手持ち無沙汰になってしまった。
窓の外を見る。今日は、朝からあいにくの雨だ。
雨の日は木材が湿ってしまい、繊維が水気を含んで彫りにくくなるので木工製品を作るには向かない。
それに、作業につい夢中になって、赤ん坊の泣き声が聞こえなくなったら大変だ。それでなくても木彫りに集中すると、勇者の少年は周囲の音が全く耳に入らなくなってしまうのだから。
赤ちゃんは眠ったばかりだから、あと二時間くらいは放っておいても大丈夫だよ、と出かける前にシンシアが言っていた。
(一応、様子を見てみるか)
勇者の少年はそろそろと音を立てないようにドアを開け、赤ん坊が眠る寝室へ猫のように身を滑り込ませた。
部屋の中は、あたたかかった。閉め切った窓は水滴でくもり、シンシアが飾ったのか四方の壁にハーブのリースが吊るされ、カモマイルやマジョラムがかぐわしい香りを漂わせている。
大人用の四本足の広いベッドの真ん中に、丸く、ふくよかな赤ん坊があおむけに寝かされ、羽根布団をかけられてすやすやと眠っていた。
勇者の少年はベッドの傍の木椅子に腰かけ、前かがみになって頬づえをつくと、眠る我が子の顔をじーっと見つめた。
……小さい。
毬のように小さな赤ん坊が、まるで転がされるようにころんと寝ているのを見ると、ベッドってこんなに大きかったんだな、と改めて感じる。
いや、ベッドだけじゃない。自分もだ。
今はこうして大人になった自分も、かつては同じように小さくか弱く、ひとりじゃなにひとつ出来ない赤ん坊だった時期が確かにあったのだ。
生まれてひと月しか経たぬ赤子の髪は、綿毛のように一本一本が細く、ふわふわしている。
肌は透き通るように白く、先のとがったまつ毛は長い。丸い鼻の隆起が、栗の実のようにいとけなく上を向いている。
まだ小さいけれど、美貌の父と母の血を受けて将来間違いなくうつくしくなるだろう、とはっきり解る整った目鼻立ち。
「おい、
………」
少年は、シンシアとふたりで一生懸命考えて付けた息子の名前を、試しにぼそっと呼んでみた。
凛とした響きの、短い名前。
男の子なのだ。
父親と同じ色の髪をし、母親と同じ尖った耳をした、世界にふたりといない空と大地と精霊の遺伝子を持つ、たぐいまれなる血統の子供。
この、うっかり触れただけで壊れそうにちいさな生き物が、自分とシンシアの間に生まれた息子だなんて、なんだかまだ夢の続きにいるような気がする。
「なぁ、
………」
もう一度、呼んでみる。
だが赤子はすやすやと健やかな寝息をたてて眠り、父親の再三の呼びかけにも全く気づかない。
たとえ聞こえていたとしたって、呼ばれているのが自分の名前だなんて、きっとまだわかってもいないんだろう。
勇者の少年は、眠る赤ん坊のほほを指先でふに、とつついてみた。
やわらかい。
(出来たての、マシュマロみたいだ)
不意にみぞおちがぎゅっとうずくような、酸っぱい林檎をかじったような、言葉に出来ないくすぐったさがこみ上げる。
それが我が子への強い愛情だということが、父親になったばかりの勇者の少年にはまだ解らない。
この世に生まれて来た小さな命が、自分の名前はこれで、父親と母親はこの人で、と認識するのは一体いつ頃のことなのだろう。
きっと、母親を覚えるほうが先のはずだ。だってあんなにずっと一緒にいるし、どんなにぐずっていても、シンシアが抱きあげてゆらゆら揺らしながら歌をうたってやると、不思議と赤ん坊はぴたりと泣きやむ。
(俺も早く、覚えてもらいたい)
父親だって。
(もっと、もっと、たくさんいたらいい)
赤ん坊がこの世に生まれて来るために、痛くてつらくて、とても苦しい思いをして頑張るのはシンシアだ。
だから男の自分が軽はずみには言うことは出来ないし、なにより死ぬほど気恥ずかしくて、彼女の前では絶対にこんなことを口にはしない。
でも、本当はこう思っている。
家族がたくさん増えたらいい。
(また、この村が昔のように、野山を駆けまわる足音と笑い声であふれるくらい)
(笑って、ふざけて、喧嘩して泣いて、毎日が音楽会みたいににぎやかになるくらい)
星の海から俺たちを見ている父さんと母さんがびっくりしちまうくらい、家族がたくさん出来たらいい。
その子たちがいつも笑って、笑って、両手じゃ抱えきれないくらい、うんと幸せになればいい。