王女と妖精の女同士の内緒の話
(わたしのお嫁さんに、なって頂けませんか)
その瞬間、世界の全てが制止する。
音を忘れたアリーナの耳に、不意に蘇ったのは、つい先ほど勇者の恋人であるエルフの少女と交わした会話だった。
(婚礼の日を待ってるあいだに、嫌になっちゃうってことなの?)
(残念だけど、世の中にはそういう人達もいるみたいね)
……ううん、違う。
わたしは絶対にそうはならない。
(だって、19年も待ったの)
待って待ち続けて、どうしようもなくもどかしくなるほど。
この言葉が与えられる日だけを、やるせないほど、切ないほどただひたむきに。
それなのになぜ、彼の瞳は喜びではなく、こんなにも苦しげな畏れを湛えているのだろう?
「……もしかして、待たせていたのはわたしのほうなの?」
「え?」
クリフトは目を見開いた。
「な、なんと?今……」
「ううん、なんでもない」
アリーナは微笑んで、白金色の指輪が嵌まった左手を宙にあげると輝きを透かし見た。
「すごく綺麗ね。何百年に一度だけ見られるという、月と太陽が重なって出来る不思議な魔法の輪みたい」
「決して高価なものではありません。貴き王家の姫君に捧げるには、あまりに非礼な品かもしれませんが」
クリフトはためらいがちに言った。
「本当は、もっと早く差し上げたかった。でもこれはここを訪れて、初めて完成するものでした。
実は銀で打つ指輪の造り方を教えて下さったのは、勇者のであるあの方なのです」
「あいつが?」
ここに来てから、クリフトと勇者の少年が小屋にこもり、ずっとふたりで何かを作っていたことをアリーナは思い出した。
「じゃあクリフト、もしかしてこの指輪は、お前が自分の手で作ってくれたものなの?」
「わたしがというか……あの方と、ふたりでと言いますか」
「そうなの……お前が、あいつと……」
その瞬間、きらきら光る月色の輪が膨らんで、視界が銀の雪に縁どられたようにぼやける。
(なんてことかしら)
なんにも気付かなかったのは、わたし。
幸せを形にしてもらわないとわからない、本当は彼よりずっと、自分のほうが鈍感だったのだ。
「ア、アリーナ様?」
ぎゅっと閉じた瞼の向こうから、クリフトの慌てた声が響く。
「どうなさったのですか?泣かないで下さい」
「だって」
真珠のような涙が、ぽろぽろ頬を伝い落ちていく。
こらえきれずにしゃがみ込んで泣きだすと、クリフトはおろおろと慌てふためいてその場に膝を着いた。
「わ、わたしがあまりに不調法ゆえ、ご機嫌を損ねられてしまったのでしょうか?
先程は本当に申し訳ありませんでした。もう二度と、酒を口にしたりなど致しません。
だからお願いします。姫様、泣かないで」
「クリフトの馬鹿!」
「わっ!」
不意に勢いよく突き飛ばされて、身体ごとひっくり返る。
クリフトは壁でごつんと後頭部をしたたか打った。
強烈な痛みに目を白黒させて、よろよろと上体を起こすと、腕に温かな重み。
突き飛ばされたかと思ったらそうではなく、胸の中で子供のように声を上げて泣くのは、愛しい少女の姿。
「ごめんなさい!」
「は……な、なにがです?」
クリフトは呆気に取られてアリーナを見降ろし、次の瞬間真っ青になった。
(「ごめんなさい」?!
もしかして、プロポーズを断られた……!)
「お前の優しい心も知らずに、わたしったら勝手なことばかり言って……。ほんとうにごめんなさい!」
「いえ、い……いや」
クリフトは茫然自失して呟いた。
「とんでもありません。そうですよね、やっぱり……思えばこれが当然の結末……は、はは………」
「ほんとにごめんなさい!クリフト、許して!」
「はい……いえ、許すも許さないも、わ、わたしは姫様がお幸せであればそれだけで」
「……クリフト、泣いてるの?」
「な、泣いてなど!男が振られたくらいで泣くわけないじゃありませんか!………ううう」
「泣くほど嬉しいのね。クリフト、大好き!わたしもう、王様だって王妃様だって構わない。
これからどんなことがあったとしても、お前と二人ならきっと乗り越えて見せるわ。
だからわたしたち、絶対に絶対に幸せになりましょうね!」
「はい、絶対に。
わたしもあなたが大好きです、姫様。ううう………、
………え?」
「……あいつら、なにやってるんだ?」
階段越しに聞こえてくるドタバタ劇に、聞くともなく耳をそばだてながら、緑色の目をした少年は呆れてため息をついた。
「せっかく気を遣ってふたりきりにしてやってるのに、クリフトの間抜けめ」
「そんなこと言ってあなた、とっても嬉しそうな顔してるよ」
ベッドに横たわっていたシンシアが目を開けて、くすくすと笑った。
「なんだ、起きたのか」
「だってあのふたりの声、すごく大きいんだもん」
「プロポーズにしちゃ、雰囲気ってものに欠けてるよな」
「いいんだよ。雰囲気なんて関係ないの。嬉しいことや幸せなことは、大きな声で口にした方がもっともっと嬉しくなるのよ」
「そうか」
勇者の少年は反対側を向いて、仏頂面で頬をもごもごさせた。
「……なら、俺の時もそうする」
「え?なあに」
「なんでもない」
急いで振り返ると、少年は少女に言った。
「なあシンシア、あのタッジーマッジー、明日も作るのか」
「うん!幸せな結婚式にお花はたくさんあった方がいいでしょう?
わたし、アリーナさんとクリフトさんのために、たくさん花束を作りたいわ」
「じゃああれも入れてやれよ、シナモン。
アリーナにはベルガモットがお似合いだなんて、ちょっと言い過ぎたからな」
「シナモン!素敵ね」
妖精の少女は瞳を輝かせて、嬉しそうに微笑んだ。
「<わたしの未来は、あなたのもの>。
どうか幸せなその花言葉が、世界中のすべての愛し合う人たちに、永遠に寄り添っていますように」
少女の手が伸びて、少年の掌と重なる。少年が少女の頬にキスをする。
いつのまにか階段から聞こえてくる声は途絶え、あたりはしんと静かになっていた。
「ねえ、わたし明日も王女様とたくさんのお喋りをしたいわ」
妖精の少女が囁いた。
「だって、知りたいことも伝えたいことも、全部形のないこの心が持っているのよ。
何を話すのかは、わたしとアリーナさんだけの秘密。
女同士でしか話さない内緒の言葉は、花束と一緒にして幸せな未来へ託すから、ね!」
-FIN-