王女と妖精の女同士の内緒の話
綺麗に洗い終えた皿を並べた木籠を、風通しのよい窓辺の棚に置く。
盥の水を上がりかまちに捨て、テーブルクロスを外して畳み、一通りの片づけを終えると取りとめのない会話もいつしか途切れる。
テーブルにつき、木杯に温かいハーブティーを注いでしまうと、クリフトはもう逃げ場がなくなったというように、どこか途方に暮れた様子でアリーナを振り返った。
緊張でうっすら紅潮した表情に浮かぶ、先ほどまでと違う張りつめた硬さ。
アリーナは不意に耳元で、自分の心臓が毬玉のように弾む音を聞いた。
「あ、あのですね……姫様。じつは唐突に、話は変わるのですが」
先ほどまでの饒舌が嘘のように、クリフトはたどたどしく言った。
「な、な、なあに」
「そ、そ、その」
それからしばらくの間、まるでふたりは壊れた鳩時計のように、な、な、な、とそ、そ、そ、を交互に繰り返した。
「そ……その、ですから」
クリフトは大きく息を吸い込むと、覚悟を決めたように言った。
「先ほど申し上げましたように、わたしはずっと勇者様のことが気にかかっていて、自分だけが望外な処遇を受けることに対して、どうしても気持ちが浮かぬ部分があったのです」
「ボウガイナショグウ?」
アリーナはどぎまぎしながら尋ねた。
相変わらず堅苦しくて、言っていることはなんのことやらわからないが、それでもどうしても触れたかった大切な核心に、今ふたりは少しずつ近づいているような気がする。
「でも今日、こうしてあの方にお会いできて、ようやく意を決することが出来ました」
クリフトは目を伏せて言った。
「やはりわたしは、こうしたいと心から望んでいたのだと。そう願うこの気持ちに、今さら何の迷いも必要なかったのだと。
だから……お聞き頂けますか、アリーナ様」
「う、うん。なあに」
クリフトは静かにアリーナに向き直った。
「城や教会では常に人の目がありますゆえ、なかなか改めて申し上げる機会がありませんでした。
だから本当は今日、ここで必ず言おうと決めていたのです。
ですが一度しか言いません。言霊が久遠に宿るのは、最初のひとことだけだから」
すらりとした長身が傾いで、鳶色の瞳と高さを同じにする。
あまりに動悸が激しくて、アリーナはもう息をするのも忘れていた。
「姫様」
「は、はい!」
「……ずっと、お慕いしておりました」
葡萄の香りが混じった熱い息が、煙のように鼻先をかすめる。
「だからどうか永遠に、
わたしの」
白檀の強い芳しさが、両肩を抱く袖から流れ込み、めくるめくような慟哭に感覚の全てが白く縁どられた、その時。
「わたしの……お、およ……、
きも……」
肩に乗せられた両手がするりと離れ、上体がなだれるように落ちていく。
「……」
アリーナは人の姿がなくなった正面を、ぽかんとして見た。
(オヨキモ?)
まばたきして、恐る恐る足元を見下ろす。
そこには床に膝をついたクリフトが、真っ青な顔をして掌で口を押さえていた。
「クリフト、オヨキモって」
「気持ち悪い」
クリフトは身を折って呻いた。
「は、吐きそうです」
「吐きそうって……ど、どうして急に」
アリーナははっとした。
「もしかしてお前、さっきの食事でワインを飲んだの?!」
「ひと口だけです。本当に少しだけ」
クリフトは悲痛な声で言った。
「せっかく出して頂いたのでせめて形だけでもと、乾杯の時に唇を付けた程度で……」
「何やってるのよ!馬鹿じゃないの!筋金入りの下戸のくせに!」
アリーナは思わず怒鳴った。
「いい、お酒には血が拒絶反応を起こす物質が入ってるの。
体が合わない人にはひとくちだろうとバケツ一杯だろうと、駄目なものは駄目なのよ!」
「ま、誠に面目次第も……」
「まったく……なによ、もう!なんなのよ、もう!!」
あまりの怒りに言葉がうまく回らなくなって、アリーナは両手で頭を抱えた。
「絶対に忘れない。一生言い続けてやるんだから!
わたしが初めてクリフトから貰った言葉は、「好きです」でも「愛してる」でもなくて、真っ青な顔した「気持ち悪い」だったって!」
「す、すいません……」
クリフトは眉を歪めて唇を噛み、なんとか立ち上がろうとした。
だが眩暈で両足に力が入らず、ぐらりとよろめいてまた膝をついた。
「ちょっと、大丈夫なの?」
「は、はい。少し休めばすぐに……申し訳ありませんが、しばらくここで休息を取らせて頂きます」
「ベッドで横になればいいじゃない。二階に部屋があるって言ってたわよ」
「とんでもありません」
クリフトは青ざめながらも、きっぱりと言った。
「恐れ多くもそちらは、姫様がお休みになられる場所です。わたしは今夜はここで」
「お前、まだそんなまだるっこしいこと言ってるの?」
アリーナは眉を吊り上げると、素早くしゃがみこんで両手を突き出した。
「婚約までしたって言うのに、今更なによ!めんどくさいわね!」
「わっ、姫様、何を……うわあっ!」
仰天するクリフトに一切構わず、背の高い身体をがばっと横抱きに抱え上げる。
(あれ、意外と軽い)
アリーナは首を傾げた。
(クリフト、最近痩せたのかしら。それともわたし、もしかして自分で思ってるよりずうっと……力持ち?)
それでも大人の男らしく引き締まった長身は、小柄なアリーナの両手から大きく余ってしまう。
長い足が宙に浮くと、クリフトは動転して蒼白になり、アリーナが階段を昇り始めた瞬間、今度は真っ赤になった。
「ひ、姫様、どうかお止め下さ……」
「静かにしなさい!」
アリーナは一喝した。
「シンシアさん達はもう寝てるのよ。それにきちんと休まないと、治るものも治らないでしょ」
「……はい」
クリフトは口をつぐみ、渋々抗うのを止めた。
アリーナに抱えられた身体をぎこちなく折り曲げ、世にも情けなさそうなため息をつく。
「姫様」
「なあに」
「申し訳ありません」
「いいわよ、もう」
「全く……よりにもよって、なんてざまなんだろう。
おそらく世界広しと言えども、こんな失態を犯すのはわたしだけでしょうね」
「なにが?」
「想うお方へのプロポーズに失敗し、なぜか逆に抱き抱えられているなんていう、世にも間抜けな男は」
アリーナはぴたりと足を止めた。
「……今、なんて言ったの。クリフト」
「貴女に申し上げるつもりだったのです。今日こそ」
すぐ真横にあるクリフトの顔が、自嘲げにほほえんだ。
「な、なにを?」
「はい、それはですね……と言いたい所ですが、さすがにこの格好では。
申し訳ありませんが姫様、そろそろ降ろして頂いてもよろしいですか」
アリーナの腕からすとんと身体を下ろすと、クリフトは真っ直ぐに立ってこちらを見た。
まだ少し青ざめていはいたが、整った細面には真摯な表情が戻っていた。
幼い頃から自分を見つめて来た、蒼く澄んだまなざし。いつも何故か懐かしいその瞳が、初めての戦きに揺れているのを認めたとたん、アリーナはようやく気付いた。
彼の瞳にもう、すべての答えが書いてあるのだと。
本当はもう、欲しかった答えなんて、とっくの昔に手に入れているのだと。
「一度しか言わないなんて自分で言ったくせに、ものの見事に失敗して、貴女に贈る言葉にやり直しが利くのかも、もうわからないけれど」
狭い木の階段のちょうど真ん中。長い影が身体を屈め、もう少し小さな影に重なる。
左手を引き寄せられ、そっと嵌められた眩しい輝きに、アリーナは目を見張った。
薬指で誇らしげに光を放つ、細くきらめく白金の輪。
「お慕いしております。アリーナ様」
静けさを取り戻した宵闇に、風のように低い囁きが漂った。
「貴女以外の何ひとつ、この心には映らない。
だから、どうか……わたしの、お嫁さんになって頂けませんか」