王女と妖精の女同士の内緒の話
「おかえりなさいませ、アリーナ様」
喧々轟々の末、花畑にいた三人がようやく家に戻ると、台所から物柔らかな声が飛んで来た。
家じゅうに立ち込める、思わず喉が鳴りそうな香ばしい匂い。オレンジ色の火の上でぐつぐつと湯気を昇らせている、大きな鍋の中身。
だがそれよりもアリーナの心をぎゅっとつねったのは、彼女に気付いたとたん、すぐにこちらへ向き直って頭を下げた、まもなく夫となる神官クリフトの穏やかな笑顔だった。
「ただいま」
気恥ずかしさを隠すため、アリーナは出来るだけそっけなく言った。
「なによ、お前がひとりでごはん作っちゃったの?」
「はい。差し出がましいかと思いましたが、つい」
「わたし、手伝おうと思ったのに」
「止めとけ。せっかくの夜に腹は壊したくない」
勇者の少年は大きな鍋をしげしげと覗き込み、珍しく嬉しそうに頬を緩めた。
「ウズラか!美味そうだな。さっき捕まえたやつだ」
「バターを溶かし、ベイリーフと一緒に煮込んでみました。ウズラは滋養がありますし、神学校時代に学生仲間とよく食したものです」
クリフトは微笑んだ。
「窯では、チャービルを詰めたマスを焼いています。それから冷たいパテとサラダはテーブルに。
シンシアさんが菜園で育てている野菜とハーブを、少々拝借させて頂きました」
「ええ、いくらでもどうぞ!」
クリフトはアリーナに優しく言った。
「姫様は、ジビエはずいぶんとお久しぶりでしょう。
宮廷はフレノールの畜産業者と専属契約しますし、城で野鳥をお召し上がりになる機会はなかなか訪れませんから」
「そうね。どうせお城なんて、好きなものも食べられない不便と不自由の塊でしかないものね。
なんだったらお前、無理して来ることないのよ」
つんと顔を背けたアリーナに、クリフトは戸惑った表情を浮かべた。
「アリーナ様?」
「わ、わあ、とってもおいしそう。さあ、食べましょう!」
シンシアが急いで明るい声を上げた。
「びっくりするくらいのすごいご馳走!わたしが作る料理なんて、全然比べ物にならないわ。
ねえクリフトさん、あとで作り方を教えて下さいね」
「はい、喜んで」
それからエルフの少女は、きびきびとテーブルクロスを敷き、皆の分の食器を並べ、椅子を引くとワインを配り、料理をよそい、両手に皿を持ったまま派手に転んでスープをこぼし、大あわてで濡れた床を拭いた。
日頃のおっとりとした様子からは想像もつかない、滑車を回すコマネズミのような動きを、勇者の少年は唖然として眺めた。
村から一切出られなかった自分に、ぴたりと寄り添って生きて来たため、シンシアは全く世間を知らない。かつて暮らした村人以外の他人と触れ合うことも、ほとんどこれが初めてだ。
(……こいつもいっちょ前に、客人に気遣ってんだな)
うつむいて思わずくっくっと笑うと、エルフの少女は不思議そうに勇者の少年を見上げた。
「なあに?」
「……いや」
自分以外の誰かといると、ふと垣間見ることが出来る、いとおしい人のいとおしい所。
どうやら何か含む所があるらしい、アリーナとクリフトの間のおかしな空気も、恋人のこんな姿を見ることが出来るなら、今夜くらいは見過ごしてやってもいいだろう。
「……うーん、眠い」
ほんの少しぎこちなくも、充実した四人の食事が終わり、テーブルに空になった食器とグラスが並ぶ。
シンシアは目をこすってあくびを噛み殺した。
「行儀が悪くって、ごめんなさい。
あんまり楽しくて、ついワインを飲みすぎちゃったから……、眠くて……」
つぶやきが途絶えて瞳が閉じられ、すうすうと寝息が洩れ始める。
椅子に寄りかかって眠ってしまったシンシアをほほえましく見つめていると、勇者の少年が立ちあがった。
「悪いな。こいつ、早寝なんだ。子供の頃から」
「え……ううん」
アリーナは思わずどきっと息を飲んだ。
少年はためらいなくシンシアを両手で抱きあげると、小さな頭を抱え寄せ、自分の肩にもたせかけた。
「寝かせて来る。あとは好きにしろ。お前らの部屋は二階に用意してある」
「あ、ありがとう」
歩き出しざま、ちらりとこっちを振り返り、にやっと美貌を歪めてみせる。
「ベッドは一応、ふたつあるけどな。どういうふうに使おうとそれはお前たちの自由だ」
「ちょっ……!」
勇者の少年がシンシアを連れて立ち去ってしまうと、クリフトとアリーナだけが、ぽつんとテーブルに残される。
ふたりは目を合わせ、慌てて反対側を向き、それからまた目を合わせて、仕方なくひきつった笑いを浮かべた。