Make piece with LOVE
うつむいたままの顔を上げると、視界に紺色の霞が掛かっている。
いつのまにかとっぷりと日は暮れ、森の奥からはフクロウの鳴く声が聞こえて来る。
絶え間なく流れる川の方角からひんやりした大気が注ぎこんで来て、シンシアは夜が訪れたことに気付いた。
そろり、そろりと後ろを振り返る。
いつまでたってもいとしいあの人は追いかけては来ない。
(……なによ、もう)
悲しみが満ち潮のように胸に押し寄せ、涙をこらえて左胸を押さえると、シンシアの掌がなにか堅い異物にぶつかった。
懐に手を入れ、そっと取り出す。それはいつも持ち歩いている、うっすらと煤けた小さな手作りの木彫り人形だった。
もう二年以上前、いつものぶっきらぼうな言葉と共に彼がくれた手作りのプレゼントは、あまりに嬉しくていつも握りしめていたせいですっかり色が変わってしまっている。
あの時くれた、不器用な告白。
(シンシア、お前が好きだ)
(もしも一緒にいなくたって、俺はお前の人形なら何千回だって作ることが出来る。目をつぶればいつでも、お前の笑った顔が瞼に浮かぶんだ。
俺とお前は体も頭も別々に出来てるけど、心の場所は割と近くにあるみたいだからな)
形あるものは少しずつ古びてゆくけれど、そっぽを向きながらくれた言葉は、今でも宝物のように色あせずに心の小箱で輝いているのに。
あの頃、不器用ながらも精一杯言葉で伝えてくれていたものが、肌の温もりで愛情を確かめ合うようになった今、少しずつ減っていく気がするのは、大人になってしまった自分の我儘な勘違いに過ぎないのだろうか?
子供じみた言いがかりをつけて拗ねたのも自分だし、彼が口にした他人への愛の言葉も、お芝居の台詞だと知っているのに腹を立てたのも自分。
山奥の小さな村に17歳まで閉じ込められて育ったせいで、彼はいまだに人と言葉巧みに接するのが苦手だ。
不器用な彼があんな言い方しか出来ないのをちゃんと解っている。なのに、つい意固地になってしまった。
こうして喧嘩して飛び出したところで、自分には行くあてなどひとつしかない。
吸い寄せられるように村の中央の花畑にたどり着くと、シンシアはため息をついてぺたんと座り込んだ。
宵闇を漕ぐ風に揺れるハウスリークの花と、並んで花弁を広げる背の高いスキレット。胸をすく香りのローズマリーは今が盛り。
満開だった夏の花は既に饗宴を終えて土に還り、小振りで香り高い秋花たちがいつのまにかこの場のあるじと代わっている。
小さな頃は、この花畑がふたりの秘密基地であり寝床だった。再び地上の世界に戻って以降、彼と共に家の寝室で眠るようになったので、もうずいぶんここで休んではいない。
初めて一緒に眠ったのもここで、もうお前とは眠らないと言われたのもここで、悲しいさよならを告げたのもここで、奇跡のように再び出会ったのもここだった。
そして、初めて愛を分かち合ってふたりでひとつになれたのも。
「シンシア」
こみ上げる嗚咽を噛み殺し、丸めた膝に顔を埋めていると、背後から声が飛んだ。
そのとたん、身体がびくんと跳ねる。
喜びと驚きと苦しさと、色んな感情が心でマーブル模様を描き、なぜか振り向くのを躊躇する。
が、もう一度、今度はひどく不安そうな声で呼ばれた時、
「シンシア」
そこにはただ、息もつかせぬ程の愛しかなかった。
勇者と呼ばれる少年が立っている。
困ったように眉尻を下げ、でも不機嫌そうにほほは強張り、喜怒哀楽の読みにくい透明な光をたたえた緑色の瞳。
「……ごめん」
意を決したように開いた唇の隙間から、音のかすかな謝罪がこぼれた。
「ごめん、シンシア」
「うん」
「俺、お前が誰かに声をかけられてもいいなんて思ってない」
「うん」
「たとえ芝居だったとしても、お前以外の奴に何度も結婚してくれなんて言って悪かった」
「あ、あれは、わたしのほうこそ……」
「どこにも行くな。お前は俺のだ。お前を他の男に取られるなんて、絶対に嫌だ。
俺はお前が好きだ。お前がいないと生きていけない。
だから……ずっと、そばにいてくれ」
勇者の少年の頬がかーっと赤くなると、シンシアの瞳からルビーの涙が一粒、ぽろっとこぼれ落ちた。
ようやく心を結び合わせたふたりを柔らかくて甘い花の香りが取り囲み、しばらくの間、勇者の少年とシンシアは言葉もなくただ抱き合った。
「かっこ悪りいよな。これだけ一緒にいて、未だにごめんも上手く言えないなんて」
勇者の少年はシンシアの頭に顎をことんと乗せ、自嘲気味に笑った。
「そういうところは俺、クリフトを見習わなきゃいけない。あいつは堅物で糞真面目だったけど、それでも思ったことは必ず言葉にしていた。
しどろもどろでも、最後はちゃんとアリーナに自分の想いを伝えていた。
俺、あいつには叶わない。あんなふうにまっすぐに生きられたら、誰だって、どんな人間だってあいつのことを好きになるはずだって羨ましかった。
いつか、あいつみたいになれたらいいなって」
「あなたはあなただよ。クリフトさんにはない、あなただけの素晴らしいところがたくさんあるわ」
「そうかもしれねえけど……あーあ、俺、なんで人間と天空びとの合いの子なんだろ。
どうせ変わった血筋を持つんなら、イルカかコウモリか、そんなもんの子供にでも生まれりゃよかったや。
そうすればこのへんから出てるもやもやした超音波で、自分以外の人間にわざわざ口にしなくても思ってることが伝わるだろ」
勇者の少年が自分の額を指差して真剣にため息をついたので、シンシアはくすくす笑った。
どうして劣等感を持つ必要がある?こういう純粋さが彼の最大の魅力なのだと、本人は全く気付いていない。
子供の不器用と大人の巧緻、もどかしい無言といとおしい雄弁の共存。本当は誰よりも素直で無垢で、水晶のようにきらきらした心を持っている。
「そうだ、迎えに来るのが遅くなったのは」
勇者の少年は懐にごそごそと手を入れると、気まり悪げに握り拳をシンシアの前に突き出した。
「これ、やるよ。急いで作ったから、大きさが合うかどうかわかんねえけど」
「なあに?……あ」
シンシアは驚いて息を飲んだ。
朝咲きの花弁のように、おずおずと開かれた少年の掌に乗っているのは、とても急いで作ったとは思えないほど精巧な浮彫が隅々まで刻まれた、大小ふたつの木の指輪だった。
「村の外の人間の世界では、結婚するふたりはエンゲージリングを交換しあうってならわしがあるらしいんだ。
永遠に好きだと想い合ったふたりは、これを互いの薬指に嵌めて結婚の誓いを交わす。旅の途中で知った。
本当は、金や白金で出来た丈夫で色あせない指輪がいいらしいけど……今はまだ、俺はそんな豪華なものを買う金を持ってない。
でも、これから木彫りをたくさん作って稼ぐ。お前に喜んでもらえるようにもっと働く。そうすれば、いつか」
「ううん、これがいいわ」
シンシアはいとおしそうに指輪を手に取った。
「冷たい金や白金なんていらない。すべての木は生きているのよ。この指輪にはあなたが吹き込んだ温かい命が宿っている。
わたし、これがいい」
「明日も明後日もその後も、ずっとお前といたい」
勇者の少年はうつむいて、ひとことひとこと絞るように言った。
「俺は半分人間で、お前は千年を生きる精霊エルフだ。たぶん持ってる寿命が違いすぎる。
死ぬ時も一緒だって言えないのは悔しいけど、俺はできるだけ長生きして、俺の命が続く限り必ずお前のそばにいる。
それにもし先に死んでも、俺はお前を絶対に待つ。
お前が来るまで。お前と一緒に、魂が星の海に還る時が来るまで」
少年はシンシアの薬指にそっと木の指輪を嵌めた。
シンシアは嬉しそうに頷いて、大きいほうの指輪を丁寧に少年の薬指に嵌めた。
「いつか、どちらかが先に身体を失くしても、このままずうっと一緒にいられますように、わたしたち。
今度こそ、永遠に」
勇者の少年は指輪を空中にかざすと、もう片方の手でシンシアの頭を静かに抱え寄せた。
言葉は、魔法みたいだ。消えても残る。何度でも生まれる。
重ねても重ねても不安になることもあるし、たったひとことで夢のように幸せになることもある。
愛する人に素直に謝ることも想いを告げることも、会話能力の低い自分には相変わらず難しく、もしかしらたこれからもそうなのかもしれない。
それでも今、生涯に一度だけ必ず伝えなければならない言葉がある。
かつて勇者と呼ばれた少年が唇をシンシアの耳に押しあててなにごとかを囁くと、シンシアのルビー色の瞳がみるみる潤み、雨に打たれた宝石のように濡れてきらめいた。
病める時も健やかなる時も、いつも、いつまでも愛してる。
死がふたりをわかつまで。
いや、死がふたりをわかつとも。
―FIN―