ここに、幸せⅡ


「……寒みぃ」

かつて勇者と呼ばれた若者は、かじかんだ手のひらにはぁっと息を吹きかけた。

黒緑の針葉樹に囲まれた山奥の村は、今朝から急に寒くなった。若者の美しい珊瑚色の唇のすきまから、真っ白な息が絶えずこぼれる。

腰に巻きつけた皮袋の中から、乾燥させたブラックベリーの実をいく粒か取り出して無造作に口に放り込むと、苦くて酸っぱい味にほほの内側がきゅっと窪んだ。

若者はまだ暗い住まいの隣にしつらえられた乾燥小屋に入ると、太い薪の束を大量に抱えて出て来て、どうと地面に下ろした。

秋の間に散々集めた薪を、手斧を使って細かく切っておくのだ。山深いこの地にとって、この程度の寒さなど序の口だった。

これからもっと凍える冬がやって来る。焚き木はいくらあっても足りるということはない。

こうして早朝のうちに作業をすませておくのは、日が昇ってから取りかかろうとすると、幼なじみで恋人のシンシアが「わたしも一緒にやるわ」とどうにもうるさいからだ。

女というものはどうして、出来もしないくせにやたらと手伝いたがるのか。

不器用なシンシアに万が一でも手斧を貸そうものなら、薪の代わりに色んなものを切り落として、目も当てられぬ惨事を引き起こすだろう。そのくせ、邪魔だからあっちに行ってろよと言うと、冬眠前のシマリスのようにほおをふくらませて怒る。

女って、いちいち面倒だ。

なのに、どうしてこんなにあいつのことが好きなんだろう。

どうして太古の昔から、男は女を愛するのだろう。そんなこと、まだようやくはたちを迎えたばかりのうら若い青年にわかるはずもなかった。

小屋から出して来た薪を、正方形の平石を積み重ねて作った薪割り台に乗せ、利き手である左手に重心をかけながら器用に割っていく。

手斧を振り下ろすたび、ばきん、ばきんと小気味よい音が響いて薪がふたつに分かたれる。

薪にするのはリンゴの木だけだと、昔から勇者の若者は決めていた。火にくべた時、リンゴの枝独特の、甘くかぐわしい香りが立ち昇るのだ。

シンシアがいつも目を細めて、嬉しそうにその香りを味わうのを知っている。

手斧を握る若者の手は芯まで冷えきって、既にラヴェンダーのような薄紫色に染まっていた。

濃紺色の上空から、大粒の雪がひとひら、またひとひら降り落ちてくる。

薪が規則的に割れる音は、静まりかえる夜明けの村に大きく響き渡ったが、窓に視線をやっても、家の中に灯りがともる様子はない。

シンシアは昔から、ひどく朝が弱かった。精霊エルフというものは元来夜行性で、種族によっては夜通し歌い踊り続ける者たちもいるという。

あまり早いうちから起きるのは、人間より血のめぐりの緩やかな体が受けつけないのだ。

それでも太陽が昇れば、眠い目をこすってベッドから降り、いとしい恋人のために慣れない手つきで彼女は朝食を作り始める。

自家製の野菜スープもヤマドリの香草焼きも、料理を始めたばかりの頃に比べればずいぶんとおいしくなった。たとえどんな味だって、勇者の若者は絶対に残さず最後まで食べる。

大切なのは味ではなく、そこに込められた優しさと真心なのだと、よくわかっているからだ。

時間をかけてあらかたの薪を割り終えた頃には、もう指の感覚がなくなっていた。

勇者の若者は手早く薪と手斧を片づけ、小屋にかんぬきをかけると、まだ暗いままの家の扉を開けた。

がらんと静かな家の中には、目を癒す一点の明かりもない。分厚い外套を脱いで放り投げ、真っ暗な炊事場と食事部屋をすり抜けると、足早に寝室へと戻る。

つま先が痺れ、歯がかちかち鳴った。寒くて寒くてたまらなかった。一刻も早く戻りたかった。

あの、なによりもあたたかくて心地よい自分だけの場所へ。

勇者と呼ばれる若者は寝室の扉を慌ただしく押し開け、サフラン色のベッドに飛び込むように身を押し入れた。

ぐっすりと眠る恋人を抱き寄せ、そっとこちらを向かせる。少しためらってから、なめらかなひたいに雪のようにつめたいほほをぴたりと寄せた。

「……んー、うん……」

長い巻き毛にうずもれたシンシアは、か細い声を洩らすだけでそれでも目を覚まさない。

抱きしめた体は子ウサギのようにふわふわしていて、まるで熱を放っているかのように温かい。毛布の中は別世界だ。真冬なのに、この空間は暑いくらいだった。

朝露にさらされて冷えきった若者の体が、ぬくもりに浸されて端々から溶けてゆく。

ああ、俺が欲しいのはこれだ。いつだって戻りたいのはここだ。

ほかにはなにも、なにひとついらない。

若者は深い深い安堵に包まれる。冷たさも寒さも泡のように蒸発して消える。息を吸い込むと、鼻孔の奥まで恋人の甘い髪の香りで満ちた。

幼い頃から彼女を抱きしめるたび、やっと帰って来た、ここに戻って来た、と感じるのはなぜなのだろう。

この回帰感を言葉で説明するのは、とても難しい。いつも一緒にいるのに、長く離れていた故郷にようやく帰り着いたような、ずっと失くしていた探し物をやっと見つけたような。

そう、うまく言えないけれどいつもどうしてか、安堵を通り越して泣き出したいような気持ちになる。

かつて世界を救った勇者は、眠り続ける精霊の恋人を腕に抱きしめ、静かに目を閉じた。

すっかり温まった体に、とろとろと再び眠気がしなだれかかる。このままもう一度眠り、黄金色の朝日が窓越しにふたりの上に注ぐまで、夢に還るのだ。

シーツは隅々まであたたかく柔らかく、どこまでも穏やかにふたりを包み込んでくれる。いとおしい恋人は朝寝坊だ。優しい夢の続きを誰かに起こされて遮られることもない。

美しい若者の唇に、かすかなほほえみが浮かんだ。

こぼれ落ちる言葉。短くてありきたりで、口にするのはくすぐったいけれど、でもこの言葉でしか表せない。


(幸せだ)


愛する人のかたわらは、これ以上ないほどあたたかい。甘い眠りにゆるやかに落ちてゆきながら、若者は悟った。

そうだ、寒さとは、あたたかさの幸福を知るためにあるのだ。ならばこの長く厳しい冬に閉ざされる山奥の村は、もしかすると世界一の幸福の地なのかもしれない。

それはとても嬉しい思いつきで、勇者の若者はまどろみながら、精霊の少女の熱く華奢な体をもう一度しっかりと抱きしめた。



ーFINー

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