秋風の宵に



開け放ったままの窓から、冷えた夜風が流れ込んで来る。

宵の大地を吹き渡る秋の風は心地よく穏やかで、それでいてとても能弁だ。夜じゅう競演を繰り広げる虫たちの声。枝先からひとつ、またひとつと落ちてゆく茜色の木の葉のささやき。

ヴァイオレット色の夜空にちりばめられた銀の星の群れ。すべてが贅沢だ。美しくて、限りない。

人はもっと気づくべきなのだ。なにも求めようとしなくとも、妙なる自然の優美はただそこに無防備なまでにあふれているということを。

「……ね」

ベッドの上にうつぶせて寝そべる、かつて勇者と呼ばれた若者のなめらかな裸の背中を、シンシアはそっと指先でつついた。

「寝てるの?」

「……寝てない」

「じゃあ、 さっきからどうしてそうやって黙ってるの?」

「こうしてるのが、気持ちいいんだ」

若者は自らの腕に無造作に顎を乗せ、横たわったままぼんやりと窓の外を見ていた。

数奇な運命の果てに半分天空人の血を持って生まれた、絵のように美しいはたちほどの若者だ。吹き抜ける風に、肩先まで伸びた翡翠色の髪がたなびく。左耳にだけ吊り下げたブルーサファイアのピアスが、かしゃりと音を立てて揺れる。

秋の風は涼やかに、若者のあらわな肌にまとわるようにして戯れる。大地の女神はいつも彼を息子のように深く愛している。

「じゃあ、わたしも一緒にそうしようっと」

シンシアはほほえむと、なにも身にまとっていない姿のまま、勇者と呼ばれた若者の背中にそっと覆いかぶさった。

しっとりと柔らかな肌が隙間なく押しつけられ、若者は目を見開くと、身動きせずに黙って頬を赤くした。

彼女の髪や吐息や爪のあちこちから、もぎたての青葉に似た真新しい自分の香りがする。

別々の命を分かち合うように強く愛し合った名残りが、彼女の身体にまだ熱を宿しているのだ。白い肌の片隅に、薔薇の花びらのような痣をいくつも落とし込んだのも自分。

それははっとするほど鮮烈な朱赤で、後から見ると痛ましさすら感じられ、いつも後悔するのだがどうしてだろう、その時は衝動を止めることが出来ない。

「……ごめんな」

「なあに。なにが?」

「なんでもない」

彼女の温かな重みを背に感じながら、若者はまた窓の外を見つめた。

青紫の夜は深く、底知れない。暗闇から聞こえてくるホー、ホーというフクロウの声。絶え間ない虫たちの輪唱。瞳に映らない確かな生命の息吹。

まるで永遠に続くような、こんなまろやかな夜のひとときを、いとおしい者と寄り添いながら静かに見守っている。

「なあ」

「え?」

「冬が来る前に、ふたりでどこかへ行かないか。簡単な旅支度だけして、行き先を決めずにその日思いついたところへ向かうんだ。

景気のいい国へ行って、お前の好きな服や本をたくさん買ってもいいし、海のそばの宿を取ってうまい飯を食ってもいい」

「ほんとう?」

シンシアは目を丸くして、勇者と呼ばれた若者の首に両腕を回した。

「どうしたの?急にそんなことを言い出して。なにかあったの?」

「べつに」

若者は窓の外から視線を離し、体をくるりと反転させて仰向けになった。

「なにもないさ。ただ、寒くならないうちにお前と出かけるのもいいなと思っただけだ」

若者とシンシアの額がそっとぶつかる。瞳と瞳を見交わしてほほえむと、会話はそれきり途絶えて唇が重なり合う。

開け放ったままの窓からまた風が吹き込んで来る。窓越しに見つめる景色は、起き上がって外へ出かければたやすくその手で触れることが出来るのだと知っている。

その美しさを、荘厳さを、雄大さを、共にいつくしむ人がいる。それがふたり生きているあかし。なによりの幸福のあかし。

「わたし、服も本もいらない。あなたと一緒においしいものをたくさん食べたいな」

唇を離したとたんシンシアが嬉しそうに言ったので、勇者と呼ばれた若者は小さく声を立てて笑った。

「お前はきっと、そう言うだろうと思ってた」と彼女を抱き寄せ、「せっかくなら両方行こう。飯と買い物」と囁いて、もう一度笑った。



―FIN―


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