勇者の故郷~終わり、始まり~
絵本で見た夏休みというものは、きっとこんな感じなのに違いない。
山の端にリンドウの花束を集めたような青空がかかり、白い雲はかぶりつきたくなるようなふわふわの綿菓子だ。
夕方になると短い雷雨が通り過ぎ、川の水は途端に増えた。だが砂岩と木陰を抜けて行く流れは清く澄み、強い日差しのせいで真っ赤にほてった頬を冷ますのに十分なほどつめたかった。
新しい本が読みたい、とせがむと、どうやって手に入れるのか、その数日後に母親は緑の目をした男の子に「はい。大切にするんだよ」とまだインクの匂いも新しいエナメル塗りの表紙の本をくれる。
嬉しさに飛び上がって叫んだが、だからと言ってすぐに読み始めることは出来ない。
バタつきパンとミルクと果物の朝食をすませたら、太陽が南の空に移動するまで男の子は剣の稽古だ。それが終わったら昼食を取り、短い休憩ののち、今度は夕暮れまで魔法の稽古。
この狭い山奥の村のどこを見渡しても、これほどみっちりと朝夕問わず鍛えられている子供は自分ただひとりだけ。
だが、まだ歯が抜けかわるより幼い頃から続けられているその厳しい鍛練は、既に男の子の暮らしの一部だった。だから文句も言わず、稽古に励んだ。剣も魔法も、練習すればするだけ身につくのが楽しかった。
師範代を務める男の口から「このたぐいまれなる才、さすが勇者だ。必ずや世界一の剣士になるだろう」と感嘆が洩れるのを素知らぬふりして聞くのが、嬉しかった。
大人の言うことはたいてい意味がわからないけれど、剣と魔法に限っては、どうやらとても上手だと褒められているらしい、というのはわかる。それに、俺のことをみんなでこっそりユーシャって呼ぶのはどうしてだろう。
気付いていないと思ってるんだろうけど、あんなにこそこそと俺のほうを見ながら寄ってたかって口にしてちゃ、嫌でもわかる。
俺、ユーシャなんだ。
………ユーシャって、なんだ?
剣の稽古に打ち込み過ぎると、手のひらに赤く腫れたマメがたくさん出来た。魔法も精神力を消耗するため子供には負担が大きく、立てつづけに唱えると頭痛や動悸を誘ってしまう。
マメが化膿しないよう軟膏を塗って布を巻き、むやみに騒ぎすぎないという約束で、時折まる一日の休息日をもらえた。そんな日は母さんに木籠にたくさん焼き菓子を詰めてもらい、幼馴染の大好きなエルフの女の子と一日中村を駆けまわって遊ぶ。
男の子は、精霊特有の長い耳と紅い目を持つその女の子と過ごすのが、なにより好きだった。彼女と一緒にいると、ややこしい魔法の呪文もずきずきする手の痛みも、自分がこっそりユーシャと呼ばれている不思議も、なにもかも忘れることができた。
自分が身体を持たない透明な空気のような存在になって、決して出てはいけないと言われた村の垣根さえ飛び越え、彼女とふたりならどこへだって行けるような気がした。
「ねえ、わたしたち、ずうっとこのままでいられたらいいね」
ひとしきり遊んだあと、ふたりの大切な寝床であり、子供だけのすべての秘密の隠し場所でもある花畑に並んで寝そべりながらエルフの女の子が言うと、男の子はきょとんと瞳をしばたたかせた。
「やだよ、俺。このままなんて」
「えっ、どうして」
「だって俺、大きくなりたいもん。いつまでもこんなちっちぇえ手足のままじゃ嫌だ。
もっと大きくなって、鉄の塊みたいに重い剣を片手で持てるようになりたいし、魔法の先生が言ってた俺にしか使えない伝説の雷の呪文を、すらすら唱えられるようになりたい。
もっと、もっと、うんと強くなりたい。だからこのままは嫌だ」
「どうしてあなたは、そんなに強くなりたいの?」
「それは、お前のことを守りた……」
男の子の頬が杏のようにぽっと染まり、急いで言いなおした。
「強くなったら、きっと村を出してもらえる。俺は外の世界を見たい。この村が何万集まっても足りないくらいの、広い世界を見たいんだ。
たくさんのものをこの目で見て、それがどうしてそこにあるのかを知って、俺がこの世界に生まれた理由を知りたい。
危険なこともたくさんあるだろうけど、その頃の俺はきっと、うんと強い。どうしてもって言うなら、お前も一緒に連れて行ってやってもいいぞ」
「じゃあ、もしも」
女の子は男の子と共に行く事が出来ないのがわかっているかのようにそれには答えず、どこか寂しげな表情を浮かべて言った。
「もしもあなたが大きくなって、うんと強くなって、外の世界へと出かけてしまっても、いつか必ず帰って来てくれる?
ここへ。わたしたちの暮らす、大好きなこの山奥の村へ」
「うん」
男の子の透き通る緑の瞳が、宝石のようにきらきら光った。
ブランカ北の山奥に住む村人たちはみな茶色の髪と目をしているが、どういう遺伝子の悪戯か、この男の子だけは翡翠のような瞳と髪、絵から抜け出したような流麗な目鼻立ちを持っていた。
「帰って来るよ。必ず。だってここが俺の故郷だ。
世界にたったひとつだけの、ここがユーシャの故郷だもんな」
「なあに、それ」
女の子がぷっと吹き出した。
「ユーシャの故郷って、まるで早口言葉みたいなおかしな響きね。あなたの名前はユーシャじゃないでしょ。へんなの」
女の子の顔から寂しさが消え、たちまち楽しそうな笑いでいっぱいになる。
大好きなその子が笑ってくれるだけで、男の子はなんだか無性に嬉しくなり、跳びはねながら自分も声をあげて笑った。
そうだ、へんなの。
名前は誰でもひとりにひとつだけ、他の呼び方なんて全然必要ないのに。
なぜだろう、命に刻まれている。
俺は勇者で、ここが俺の故郷。翼を広げて巣立ち、いつかまた帰る場所。
目の前で笑う大好きなエルフの女の子に、聞いてみようか。なあ、俺が大人になるまで、強くなるまで、多分もう少し時間がかかる。
その長くて短いあとすこしの時間、永遠みたいだけど必ず終わるその時間、お前はずっと、
俺と一緒にいてくれる?
熱流のような容赦ない太陽の陽射しが、木むらの青々としたざわめきをはねのけるようにして、今日も山奥の村に降り注いでいる。
いつもの夕方の短い雷雨まで、この分ではまだ数時間あるだろう。白い雲は綿菓子のようで、川の水も相変わらず澄みきって清い。
身体をもがれるような悲しみの末に村を離れ、もう二年もの時がすぎたというのに、なにもかもがあまりに変わらなすぎて、嘘みたいだ。
草木の色も鳥のさえずりも、すべてが鮮明すぎて、それがゆえにまぼろしのよう。違いはただ、そこに人いきれの喧騒がない。存在が奏でる息吹がない。誰の暮らしもない。
昔より静かで、広すぎるというだけ。
どんな悪戯をしでかしても、愛情たっぷりの笑顔で出迎えてくれた両親はもういない。厳しくて優しかった師範代ももういない。急かされるように追い立てられた剣と魔法の稽古の時間も、もうない。
大人になったら、誰も「勉強しろ、努力しろ」とはいちいち言わない。強制もされない。自分で決めることだ。
たった一度の人生をどう生きるか、それは自分自身で決めること。
「ただいま」
たとえ伝える相手がいなくとも、せっかく帰って来たのだ。誰にというわけじゃなく、なんとなく言いたくなって、緑の目をした少年は呟くと両手を広げ、仰向けに地面に倒れ込んだ。
左手に掴んだ剣が、背中に背負った盾が草の上に投げ出される。その拍子に、木の枝に群がっていた鳥たちが一斉に飛び立った。
少年はもう、昔のような子供ではなかった。正確に言えば、少年の殻さえ既に脱しかけている。長い激動の旅を終え、手足はしなやかに引き締まり、美しい顔にも磨き抜いた鋼のような凛とした意志が漂った。
広い世界を巡り、自分が生まれた理由を知った。世界がなぜそこにあるのか、その理由を知った。
だがその成長を、その強さを喜んでくれる者は、もうここには誰もいない。
疲れたように目を閉じると、突然瞼に七色の光が散った。まぶしくなってもう一度目を開けると、いつのまにかあたり一面に満開の花が広がっている。
横たわる少年の傍らで、蜃気楼のような靄に包まれたエルフの少女が、風に髪をなびかせてほほえんでいた。
少女は少年の上に屈みこみ、その唇にそっとキスをした。少年が動こうとしなかったので、少女はほほえみながら何度も、何度もキスをした。
額に、頬に、鼻の頭に、顎先に。とめどなく優しく繰り返す。
あふれるほどのキスの雨を顔じゅうに降らせ、最後はもう一度、今度はぱく、と唇で唇を挟むと、緑の目の少年はとうとうこらえきれなくなったように肩を揺らして笑いだした。
「食べ物じゃねえぞ」
「知ってるよ。でも、とってもおいしそうだったから」
「俺が?」
「うん。よく実って、熟して、たくさんの深い傷を負って、世界中のどこにもないすごくきれいな色に輝いている。
大きくなったね。強くなったね。
あなたはとても強くなって、ここへまた帰って来たんだね」
だって、約束だったもんなと少年は言って、寝そべったまま少女を抱き寄せた。
自分の腕を枕にして、少女を花畑に横たわらせる。少女は心地良さげに目を閉じると、安心したのか、少年の胸の中ですぐにやすらかな寝息を立て始めた。
すると少年も釣られたように、急にとろとろと甘いまどろみに誘われて、握りこぶしでごしごしと瞼をこすった。
どうしてだ?
すごく眠いや。
子供の頃、いつもこうしてふたりで一緒に眠ったっけ。鼻を押しつけるとふわっと立ち昇る、彼女の髪の香りがなにより好きだった。この村だけに咲くなつかしい花の香り。山奥の村の花畑の香り。
もう戻ることは出来ない、幼かった日々。早く大きくなりたい、強くなりたいと切ないほど願い続けた。一瞬で失くした幸福。頬をくすぐる、エルフの少女の尖った耳。腕の中で繰り返される、失われたはずの温かくおだやかな呼吸。
……もしかして、これって夢か?
それとも神様ってやつが、俺への褒美にひとつだけ奇跡を起こしてくれたのかも。
よくわかんねえや。
ただ、今は……、身体が溶けてしまいそうなほど、ひどく眠い。
手足の力を抜き、目を閉じて大地に寄り添うように眠りに落ちて行こうとする少年の意識を、そよ風に乗せて淡い、だがはっきりとした囁きがたゆたった。
(お帰り)
(やっと帰って来たね)
(帰って来たんだね、ここへ)
(わたしたちの愛する息子)
(ここがお前の故郷)
(勇者ではない、誰でもない。世界中にただひとりのお前という存在の)
(ここが、たったひとつの故郷だよ)
……父さん、母さん?
そこにいたのか
へへ、笑ってら
すごく元気そうだ
これ、やっぱ夢かなぁ
まあいいや
今は一旦眠って、難しいことは目が醒めてからゆっくり考えよう。
もう剣も魔法もいらない。自分には長いようで短くて、永遠のようで必ず終わる、今という生きた時間が残されているのだから。
少年は少女を抱きしめ、花の香りに包まれてうとうとと眠りこみながら、やっとたどり着いた故郷に確かなしるしを残すように、もう一度静かに呟いた。
「ただいま」
呟いてほほえむと、閉じた瞳のはしから一粒の涙がこぼれ落ちた。
それが、勇者と呼ばれた少年の長い長い旅の始まりの終わり、終わりの始まり。
「ただいま。ずっと待っててくれて、ありがとな。
……おやすみ」
-FIN-