初恋
まぶたを開ければ、耳のすぐ横でくう、くう……という音。
それは子犬のような、子猫のような。もしくは母の胸に抱かれて安心しきった生まれたての子ウサギのような。
無垢な小動物のようなかそけき寝息を立てている張本人は、こちらの悩みなどつゆ知らず、どうやら夢の中で風と鳥と歌ってでもいるらしい。
なめらかな珊瑚色の唇がときおりあどけなく緩み、楽しそうにふふっとほほえむ。
そしてまた、くう、くう。
規則的なその音を聞いているだけで、心臓がおかしいくらいぐらぐら波打って、喉がぎゅうっと締め付けられる。
突然跳ね上がる鼓動のあまりの速さに、最初は悪い病気にでもかかったのかと思ったが、こうして並んで花畑で眠る時だけそれは訪れると気づいてから、病の心配をするのはとりあえず止めた。
動揺の主はこみ上げる息苦しさを払うように額を手で押さえ、はあっと深く息を吐く。
翡翠色の長い髪がはらりと頬に落ちる。
七色の花にうずもれて頭を抱える、それは息を飲むほど美しい少年だった。
年齢を重ねて成長ととともに少しずつ削ぎ落とされているが、まだ輪郭にうっすらと柔らかさの残るほほ。彫刻のような完璧な造形。神々の施した至高の細工。
その上に穿たれた、エメラルド色の大きなふたつの瞳。
言いたいことがたくさんあるのにわざと押し隠しているようなまなざしは、感情の読みにくい奇妙なきらめきを湛えている。
ほんの少し前まで、性別が解らないほど愛らしかった容貌に、この一、二年でみるみる刃物のような鋭さが加わった。
身長が伸び、肩幅が広くなった。肘や膝が男らしく尖るようになった。急激に手足が成長する痛みに、眠れない夜もある。
肩下にすんなり垂れる、絹糸のような髪。輝く肌と濡れ羽色の長い睫毛。
これ以上は望むべくもない、女神も青ざめる人間離れした美貌。
まもなく17歳を迎えようとする、後に天空の勇者と呼ばれる山奥の村の少年だ。
「う……ん」
眠る少女の小さく開いた唇から吐息がこぼれると、勇者の少年の頬にぱっと薔薇色の血が昇る。
鼓動を跳ね上げた心臓はもはや割れ鐘のように鳴り打ち、呼吸をするのも痛いほどだ。
(ああっ、くそ!
なんなんだ。なんなんだよ、ちくしょう)
ルビー色の目をした、幼馴染のエルフの少女。出会ってからずっと、毎晩のように一緒に眠って来たのに、どうして突然こんなにどきどきするようになったんだ。
それが「切ない」という感情だということを、彼はまだ知らない。
なにかにつけて稽古や勉強に結びつけようとする大人たちも、誰もそんなことを教えてはくれない。
小さな頃からいつも一緒で、まるで双子の姉弟のようにかたときも離れず暮らして来たのに、その想いはある日突然、湧水のように心にあふれ出すのだということも。
並んで横たわっているせいで、触れ合う肩と肩。ふたりを囲む花はクリーム色の可憐なメドウスウィート、ピンクと紫が鮮やかなヒソップ。葉々も芳しいベルガモット。土を転がる飴玉のような緑のフィルバートの実。
数え切れないほどの花、花、花。
甘い香りが漂うのは咲き誇る花々からなのか、それとも彼女からなのかわからない。
傍らで寝返りを打たれるたびにびくっとし、あわてて反対側を向くが、長いことそうしているのにも耐えられなくて、結局そろそろと向き直る。
寝顔を見たいという衝動に、負けてしまうから。
でも、見るとすごく苦しくなる。
それはたとえば深く掘った穴に向かって、「王さまの耳はロバの耳!」と叫びたくなるような、体の内側がくすぐったくて、でも絶対に手が届かないような、うまく言葉に出来ないもどかしさ。
そして、そんな感情を急に抱き始めた自分に、強い罪悪感も感じてしまう。
ひとりで勝手にどきどきして、困惑して、混乱して。彼女は自分の隣でこんなにも安らいで、赤子のようにぐっすりと眠っているのに。
「ねえ………だいすきだよ……」
その時、彼女の唇から寝息と共に、かぐわしさに縁どられた呟きが洩れる。
「だいすき。すごく、すごく好きだよ。
だから……これからもずっと、こうして一緒に眠ろうね………」
そしてまた、くう、くう……という幸福な夢のリズム。
緑の目をした少年の肩が気の抜けたように力を失い、だらんと下がった。
(……悪りぃ。無理だ)
ずっとこうして一緒になんて、眠れない。
大好きなのは同じはずなのに。
家族にも似た絆を越えて、どうしようもなく彼女に恋をしていると気づくのはまた、もうこれまでと同じではいられないと思い知らされることだった。
この夜を境に、勇者と呼ばれる少年は、大好きなエルフの少女と一緒に花畑で眠るのを止める。
恋を知ってしまったから。
眠れないほどいとおしくて、ただ傍らにいることすら苦しくなってしまったから。
だが先天的に不器用な彼はそれを上手く伝えられず、この後、生まれて初めて少女と激しくぶつかり合うことになる。
大人に近付き始めたふたりが、眼前に花開いた真新しい景色を、手を取り合って戸惑いながら覗くこと。
それはありふれているようで、二度と戻らない時間が奏でる、哀しくも切ない初恋の歌。
ほほえみながら死出の竪琴をかき鳴らす無情の天使が歌う、少年と少女の別れの前のマドリガル。
だけどそれはまたもうひとつのお話、神の戯れが作り出した別の物語の事。
―To be continued in 長編「星の奇跡」―
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