永遠の約束〜ゆびきりげんまん4〜



クイーン・フィオリーナの美しさは、わたしたち平民の間でも有名だった。

真に気品ある者だけが醸す、真珠のような高潔な佇まい。鳶色の澄んだ瞳、同じ色をした長い髪。

繻子のドレスに包まれたすんなりと細い肢体は、遠くから眺めても光り輝くようだった。

東の王国ボンモールから嫁いで来た彼女は、抜けるような白膚を持つサントハイム人よりも小麦色がかった肌をしていて、

それが欠点の見つからない彼女の美貌に、すこやかな親しみやすさを与えていた。

まだ幼かったわたしの記憶にはっきり残る、あでやかな薔薇のような王妃の微笑み。

今でも思い出す。


あの時、貴女様と交わした約束を、わたしはちゃんと守れているでしょうか?








「あなた、どうして泣いているの?」

その日、サランの教会に併設された修道院の庭園で泣いていたわたしの頭を、優しい掌が撫でた。

泣き濡れた目を上げると、人形のように綺麗な女の人の顔。

長い睫毛にふちどられた、はちみつ色の大きな瞳で、しゃくり上げるわたしを覗き込む。

「どうして泣いているの?」

「な、泣いてなんかないよ」

まだ四歳だったわたしは、独りで厠に行くこともできぬ臆病な子供だったけれど、

そのくせ文字や言葉の理解力だけは、同い年の子供たちより飛びぬけて優れていたので、もう自分は一人前なのだと勝手に自負していた。

子供なりの精一杯のプライドが、わたしを皆の前で泣かせようとはしなかった。

だから庭園にひとり出ては、古びたガゼボの陰で誰にも見られないようにこっそりべそをかいていたのだ。

知らない人と口を聞いてはいけないと、繰り返し神父に言い含められていたし、だいいち修道院にこんな身なりの豪華な女の人はいない。

きっといつものように、サントハイム城市に住む王侯貴族が、身寄りのない子供を引き取りに訪れたのだろう。

毎日の食事にもこと欠くような暮らしの果てに、両親を巡礼中の事故で喪ったわたしには、裕福な人間はそれだけで憎しみの対象だった。

「どうして、泣いているの?」

それなのに、優しい声でもう一度問われて、わたしはなぜか驚くほど素直に答えていたのだ。

「お父さんとお母さんが、ぼくを置いていなくなってしまったから。

ぼく、ひとりぼっちなんだ。ひとりで生きて行かなくちゃならないんだ」

「まあ、……そうなの」

その時、女の人がまるで自分のことのように悲しそうな顔をしたのを、今も鮮明に覚えている。

形の良い眉を八の字に下げ、それからすぐにほほえんでわたしを見つめたことも。

「泣かないで。空と同じ蒼い目をしたぼうや。

神はあなたという存在に、とても辛く厳しい試練をお与えになったのね。

それでも、苦難というやすりに磨かれたあなたの魂は、いつかどんな闇をも照らす、輝ける真理を手に入れることでしょう」

「ヤスリ?シンリ……?」

いくら物覚えの良さを誇っていても、さすがにその時の彼女の言葉は、四歳の子供にはすこし難しすぎた。

ただ、大きな瞳がまるで琥珀のようにつやつやと光っていたので、わたしはこの人はきっと優しいひとなんだろうな、と漠然と思った。

「坊や、泣かないで。どうか、試練を乗り越えることの出来る強い人間になって。

あなたは神様に特別な宿題を与えられた、高き魂の持ち主なのよ」

「宿題……?神様に?」

「ええ、そう」

女の人は深く頷いた。

「苦しみや悲しみという試練は、それを乗り越えられる力を持った魂にこそ訪れるものなの。

どうか、負けないで。あなたはその強さをちゃんと持っている。

崖の上に咲いた花が、そこに咲いたことを決して恨まないように、与えられた生と向き合い、限られた命を精一杯生き切って」

「そうすれば、ぼくは幸せになれるの?いつかいいことがあるの?」

幸せという言葉の意味も解らなかったくせに、そのときのわたしが何故そんなことを聞いたのか、よくわからない。

「ええ、きっとあるわよ」

でも濡れたまぶたをこすって尋ねたわたしに、女の人は花のつぼみが開くようにほほえみかけた。

「人は、幸せの意味を知るために生まれて来るの。

それは当たり前の暮らしの中に、かくれんぼするように上手に隠れていて、ごはんを毎日食べたり、寝ることを繰り返すだけではなかなか気付くことが出来ない。

苦難を乗り越えたその時こそ、あなたは、あなたとして生きていることの素晴らしさを知る。

そして、あなた以外の人が生きていることの素晴らしさを知る。


生きることの奇跡を知る。それが神がわたしたちに与えてくれた、「ほんとうの幸せ」なのよ」


女の人は不意に口をつぐみ、うつむいて激しく咳き込んだ。

驚くわたしに弱々しく笑いかけると、「ごめんなさいね」とガゼボに力なくもたれかかる。

「もしかして、ご病気なの?」

「うーん、そうね。決して治らない病というわけではないんだけど……今のわたしはほんのすこしだけ、体力をいつもより多くここに集めているから。

たぶん、この子もきっと、あなたと同じように試練に立ち向かう運命を背負うことになるでしょう」

言って、彼女が大事そうに手をやった場所を見つめ、わたしは驚いて口を開けた。

ゆったりしたドレスに包まれた女の人のおなかが、風船のように大きくふくらんでいる。

「お、おなかに、赤ちゃんがいるの?」

「ええ、そうよ。今日はサランの教会に、内密で安産の祈りを捧げに来たの。

城下の教会だと、出かけるのにも先触れを送ったり衛兵をつけたり、なにかと物々しいし、ブライ卿に頭が痛いからしばらくベッドに横になるって嘘をついて、裏門から抜けだして来ちゃった」

そう言って、悪びれずに舌を出して笑ったのは、今思えばいかにもあのお方の母親らしい天真爛漫さに満ちていたのだが、そんなことをその時のわたしが知るよしもない。

「この子を授かったから、わたしは気付くことが出来たの。生きる幸せの意味を。なにがあっても悔いはないわ」

困惑するわたしに、女の人はにっこり笑いかけ、内緒話を告げるように声を落とした。

「ねえ、神の御もとで暮らす蒼い目の坊や。あなたの名前はなんていうの?」

「クリフト」

「クリフト。Cliff「崖」とLift「揚力」。

ふたつの意味を併せ持つ、とても素敵な名前ね!

じつはわたし、生まれて来る子の名前をふたつ考えていて、どちらにするかまだ決めかねているの。

お腹の形から、女の子に間違いないだろうって言われているのだけど、あなたはどっちの名前がいいと思う?

ひとつはね、陛下のアル・アリアスの御名とわたしのフィオリーナを合わせて、アリーナ。

そして、もうひとつは……」

「ア リ ー ナ ?」

うわごとのように繰り返すと、四歳のわたしは目を見開き、そのままよろよろと後ろに尻もちをついた。

「どうしたの、クリフト。大丈夫?」

「う、うん……」

なぜだったのだろう。

その時、ひとたび止まった涙が再び目に滲んだ。

その名前を耳にしたとたん、天啓を受けたように体に激しい痺れが走る感覚があったのだ。

「ぼく、アリーナがいいと思う!」

わたしは綺麗な鳶色の髪をした女の人に、もうひとつの名前を聞く前にきっぱりとそう言った。

「生まれて来るあかちゃんは、アリーナってなまえがいいと思う」

「まあ、そう?じつは、わたしもそう思っていたのよ!

じゃあ、この子の名前はアリーナに決まりね」

「でっ、でも」

あっさりと言われて、幼いわたしは慌てた。

「自分のこどもの名前を、そんなにかんたんに決めちゃっていいの」

「あら、簡単じゃないわ。この子を授かったと聞いてから十月十日のあいだ、一生けんめい頭を絞って考えた名前よ。

ただ、最後に誰かに背中を押して欲しかったの。神の御もとに住まうクリフト、あなたはまるで神の子供そのもののように、とても綺麗な目をしているわ」

女の人はわたしの頬に手をやり、いとおしそうに優しく撫でた。

「ねえ、クリフト。わたしの子供の名付け親のぼうや。お願いがあるの。

もしも、あなたがいつかこの子と……アリーナと会う時があったら、どうかこの子のことを守ってあげてくれないかしら。

残念だけれどわたしにはどうやら、それが出来そうもないから」

わたしは目を丸くした。

「ぼくが?」

「ええ、そうよ。あなたは名付け親なんだもの、そのくらいの責任は負ってくれてもいいでしょう?

そのためには、強くならなくちゃ。誰かを守るのに、めそめそ泣いている暇なんてないわよ。

だから、泣くのは今日でおしまい。これからは自分以外の誰かを守るため、強くなって。強く生きて。


ゆびきりげんまん。わたしとあなたの約束よ。クリフト」


たった今会ったばかりなのに、そんな、めちゃくちゃな!

小指と小指を絡められ、呆気に取られたわたしがさらに動転したのは、女の人が体を屈めてわたしのほおにキスをしたからだった。

「じゃあね、クリフト。蒼い目の小さな神の子供さん。

どうしてかしら。いつか、わたしのアリーナとあなたが嬉しそうに笑顔を交わす、そんな日が来るような気がしてならないの。

わたしには陛下のような予知能力はないけれど、神が宿る強く美しい魂は、ちゃんと見つけ出すことが出来るのよ」

そう言い残すと女の人は、身重とは思えぬほどかろやかな足取りでドレスの裾を翻し、その場を立ち去ってしまった。

わたしはぽつんとその場に残された。

涙はもう、とっくに止まっていた。

「フィオリーナ。ヘイカ。ヘイカって、おうさまのこと?

生まれて来るこども。女の子……おひめさま。

ぼくが、名付け親……。

………アリーナ。



アリーナ、さま?」





その時の自分が誰と出会い、何を話し、それによってどんな運命が生じたのかを知るのは、もっとずっと後になってからのことだ。

その数月後、サントハイム王妃が玉のように健やかな王女を生んだことも、産後の肥立ちが悪く、幼い赤子を遺してこの世を去ってしまったことも、

修道院で過ごしながら風の便りに聞いたことは、まるで物語の一節のように、どこか現実感を伴わないままわたしの耳を通り過ぎていった。

でも、こうして大人になり、ふと思い出す。

もう見ることは出来なくなった、あの女の人の花がこぼれ落ちるような微笑みを。

己れの弱さにくじけ、立ち塞がる困難に心が負けそうになる時、いつもあの約束を思い出す。

(自分以外の誰かを守るため、強くなって。強く生きて)

今のわたしにはまだ到底わからない、生きる幸せの意味。

でも理屈や綺麗事じゃなく、事実としてはっきりこの胸に刻まれていること。


わたしには、守らなければならないものがある。


たったひとつのその思いが、くずおれそうな足を踏みとどまらせ、力を失いかけた背中を真っ直ぐに伸ばしてくれる。

そしてあのあでやかな微笑みによく似た、ひまわりのようにまぶしい笑顔を傍らに見る。

わたしが名付けたという、美しい名前を呼ぶ。

何度も、何度も、声を限りに呼ぶ。

きっと今日も、空の向こうからあの日のようにこちらを覗き込んでいる鳶色の瞳に向けて、


「ほら、あなたの言った通り、わたしたちはこうして笑っています。


わたしはちゃんと、約束を守っています。永遠に守り続けます」と伝えるために。





-FIN-


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