希望の音色
指の間から土がこぼれると、ぬくもりも一緒に滑り落ちた。
こうしているとなにもかも忘れられると思い、朝からずっと庭園の土いじりにいそしんでいるが、頑張れば頑張ったぶんだけ作業は粛々と進み、気がつけばもう耕すべき場所などどこにも残っていない。
はや一週間近く世話になっているアネイルの宿の主人は、いかにも好々爺といった風貌の人当たりの良い老人で、宿泊中は庭園も浴場も、好きなだけ使っていいと言ってくれた。
その言葉に甘えて意味もなく土を掘ったり耕したり、幼い頃から教会所有の田畑で百姓の真似ごとをして来た自分には、野良仕事も心やすらぐ時間だったが、
当然ながら、それを眺めるだけの旅の同行者達には、露の一滴ほども面白くない時間であったことだろう。
首筋をつたい落ちる汗を手の甲でぐいと拭って、二階のアリーナ姫の部屋の窓を見上げる。
宿泊初日から閉めきられたままのカーテンは、宿の主人の趣味なのか濃茶色で、老朽化して塗料の剥げ落ちた窓枠と相俟って、なんとも侘びしいたたずまいを醸し出していた。
新大陸行きの手段を見つけるまで逗留を決め込もうと宿を取り、貴きあるじが部屋に足を踏み入れて以降、ただの一度も開かれていないカーテン。
それはそのまま、祖国の家族と民を突然の神隠しで失った、彼女の閉ざされた心を克明に表わしていた。
クリフトは大きく息をつくと、手にしていた鋤を石壁に立てかけた。
指先で額を拭った瞬間、新たな汗がどっと吹き出す。
太陽はいつの間にか頭上に昇り詰め、夏が始まったばかりとは思えぬほど強い日差しで、地表をじりじりと焦がしていた。
「……暑いな」
腰のベルトに巻いた革袋を外し、口元に運んで中に満たした水を大事そうに飲む。
こまめにそうしなければ、一年じゅう神官の正装を後生大事にまとっている体は、すぐに熱中症を患ってしまうだろう。
夢中になっていた畑仕事を止めたとたん、暑さはひどく強く感じられ、じっとしているだけで体の端々が溶けてしまいそうだ。
そのくせ、夜は恐ろしく冷え込む。
寒暖の変化をこれほどはっきりと体感したのは、北西にあって年中寒い祖国サントハイムを離れ、旅に出て初めてのことだった。
ほんの数月前、祖国の肌を切るような寒さに身を縮ませていた自分が、今は血まで蒸発するような暑さに大量の汗を滴らせている。
でもそうして全身で感じる寒さ暑さが、知覚を通してこの身に教えてくれる。
わたしは生きている。
今ここに、こうして生きている。
季節は巡る。
寒さが過ぎれば暖かさが訪れ、暖かさが去れば暑さが訪れ、季節は回り続ける風車のようにとこしえに巡りゆく。
クリフトは動かないカーテンをもう一度見上げた。
姫様。
アリーナ様。
あなたは今もそこで、カーテンを閉め切った真っ暗な部屋で、ベッドにうつぶせてひとりぼっちで泣いておられるのですか?
扉を強引に押しあけ、泣きじゃくるあなたの足元に膝まづいて共に泣くことも出来るけれど、わたしにはそうするつもりはありません。
悲しみはとても個人的なもので、数えることも、放り出すことも、誰かにほんのいっときだけ預けることも出来ないから。
それでもわたしは、あなたを信じます。
胸が裂けるほどの悲しみに大粒の涙をこぼすあなたの中にともる、ひとひらの勇気の灯を。
だってわたしたちは、泣きながら生まれた。
泣いて、泣いて、数え切れないほど泣き続けて、ちゃんとここまで生きて来た。
だとしたらきっと、泣くことは生きること。生きることは、泣くこと。
あなたの涙が大地に浸み渡れば、そこから希望という名の花が小さな芽を息吹く。
そしてわたしは、いつも祈りを捧げます。
あなたがいるこの世界に感謝を。
たとえなにひとつ役に立たなくても、使い古されて陳腐な言葉でも、どんな時も祈り続けます。
神に感謝を。
いいえ、
あなたの命が生まれたこの世界に、心からの感謝を。
やがて、窓硝子の向こうでカーテンがかすかに揺れ、布地の隙間から泣きはらしたふたつの瞳がおずおずとこちらを覗いた。
クリフトは微笑んだ。
見上げた視界に迫る陽光のまぶしさに目を細め、わざと気づかないふりをして反対側を向くと、大きな声で言った。
「ああ、今日もいい天気です。
こんな日は外に出かけるのもいいけれど、あえて外に出ないというのもまた、とびきり贅沢な過ごし方。
宿の台所を借りて、ミートパイを焼きましょう。うんと豪勢に、ふんだんに具を詰めたものを。
それから紅茶も入れましょう。ジャムを落として、ミントの葉も載せて。つかの間の休息を楽しみましょう。
でも姫様は部屋でお休みのようだし、せっかくだけれどお茶もパイも、わたしとブライ様のふたりで頂くことにしましょうか」
「……!」
隙間から覗いた鳶色の目が大きく見開かれ、あわててカーテンの陰にひっこんだ。
閉め切った窓の向こうから聞こえて来る、ガチャリ、バタン。バタバタバタ……という音。
あまりの効果にクリフトは一瞬あっけに取られたが、くすくすと肩を揺らして笑い、宿の入口に向かって歩み始める。
扉一枚を隔てて近づいて来る気配に耳をそばだて、厳かな祈りを唱えるように囁いた。
姫様、あてておみせしましょう。
あと五秒後にあなたはここへやって来て、そしてわたしの名前を呼ぶ。
ちょっと気まずいのを隠して、すねたように唇を尖らせて、散々泣いてすっかり枯れてしまった声を、一生懸命無理して張り上げて。
でもそれこそが、あなたの命が生み出す希望の音色。
落とした涙がはぐくむ小さな芽が、そっと首をもたげて土を押し上げる音。
いち、に、さん、し………、
ほら、ね。聞こえた。
-FIN-