別れの朝



「ど、どうして……」

「お前にはすべて隠しておこうと幾度となく思ったが、それは止めた。儂は嘘は好かん。とくに、賢い人間へ対してつく嘘はな。

賢き者は真実を見抜く。己れを傷つけまいとしてつかれた嘘が生む虚偽の襞に気づき、それによって聡明な心はより一層傷つくことだろう。

じゃから、儂はお前に全てにおいて真実しか話すつもりはない。またそれを受け止めるのが、まもなくやって来るお前の新たなる人生への最初の試練とも言えるであろうしな」

師の話の意図する所が一向につかめず絶句するクリフトへ、サントハイム教会の老大司教エルレイは至極冷静な口調で続けた。

「聞け、クリフト」

「は……、はっ」

「およそ二年もの凄絶な戦いの旅を経て、主家の王女を庇い助け、天空の勇者が邪悪を滅する一助を果たしたお前はただの神官から一躍救国の英雄となった。

そなたはあと三つの月をまたがぬうちに、サントハイム王国第一王位継承権者のアリーナ王女と晴れて婚姻を交わす。

現王アル・アリアス二十四世陛下は、娘アリーナ王女の婚姻と同時の女王即位を認めておらん。それはつまり、民間出身のそなたが直系の王女に成り代わり、このサントハイムの新王として即位するということじゃ。

無論、聡明なお前のこと。これがどれほど異例の沙汰か、とうに理解は出来ておろうな」

「……はい。ですが、それがあの木と何の関係が」

「これまでサントハイム王家は、一粒種のお転婆姫のおよそ世継ぎらしからぬ破天荒な振る舞いに、散々頭を悩ませてきた」

困惑するクリフトを無視して、エルレイは言った。

「そこへ来てあの恐るべき地獄の帝王の復活と、謎の神隠し。

前代未聞の擾乱から回復して未だ間もない不安定な情勢に乗じ、王家はお前という賢く優れた絶好の娘婿を、実にうまうまと得ることが出来たのだ。

聖職者で生涯独身を通すべきお前を特例で還俗(げんぞく)させ、英雄という名誉を盾に、なかば強硬に王女の婚約者に祭り上げた。王家はもはや決してお前を手放すことはないであろう。

我らサントハイム城市聖教会はこれまで最も期待をかけ、幼い頃よりその才を磨きあげ慈しんで来たお前という唯一無二の後継者を、色恋と権力の名のもとに突如奪われることになったのじゃ」

「そ……!」

クリフトは気色ばんだが、唇をぐっと噛みしめて胃の腑の底へ動揺を飲み込んだ。

「……そのように過分なお言葉、わたしごとき愚臣にはあまりに勿体ないかと」

「なにが愚臣じゃ。愚臣が開闢二千年の聖なる王国の君主となれようか。この期に及んで型通りの謙遜は止めよ。鼻に着くわ」

エルレイは腹立たしそうに痩せた肩をそびやかしたが、言葉とは裏腹に皺深いそのおもてには、幼少より息子とも孫とも愛してきたこの若い弟子への隠しきれぬ愛憐の情が滲んでいた。

「教会に残される高位聖職者たちは、既にみな年老いた。未来を担う絶対的後継者を政治的介入のもとに失う教会は、その生き残りをかけて早急に新体制への刷新を図らねばならぬ。

あの木は切り、東の庭園は埋め、新たな聖堂を作る。そこを次代の後継者たる修道士らの教育の場にするつもりじゃ。

あの木を愛したお前の影をここから跡形もなく消すために。神に愛され、人に愛され、教会に集う民すべてに愛されながらも無慈悲にここを去って行く蒼い目の神官の残り香を、一刻も早く消し去ってしまうために。

お前に代わってサントハイム城市教会の未来の核たりえる、新たな神の子供を育むためにな」

「………」

もはや重ねて抗弁を述べる気力も、不器用な作り笑いで受け流す余裕もなかった。

エルレイの口調には自分を責める様子など微塵もなく、ただ物語の予想もしなかった結末を告げる語り部のような深い諦めが漂っていて、それがクリフトの心を強く、深くえぐった。

自分がここを出て行くという事実の前には、どんな反論も言い訳もむなしい。

取り繕う言葉を重ねようとすればするほどそれはむしろ苦さを増し、やがてこの場所に向けるであろうクリフトの背中に、鉛のように重くのしかかるだけだった。

そうだ。

わたしはもうじきここを捨てて行く。己れのいじましい恋心を成就させるために。

血のにじむような努力を重ねることでようやく得た神の子供の名を捨て、黄金色の宝飾きらびやかな玉座に座る、この国で一番偉い人の子になるのだ。

ギッ、ギ―――――――ッ。

閉めきった窓の向こうで、太い幹が蓄えた200年分の円の連なりを、鉄色の鋸が一刀に切り裂いて行く。

もうまもなく、あの木は重心の行き場を失って………倒れる。

「……ごめん」

クリフトの頬を涙がつうとすべり落ちた。

「ごめんね」

子供の頃と同じ頼りない口調で呟いたとたん、こみ上げて来る嗚咽を抑えきれず、幹から折られた枝のように床に崩れ落ちて両手で顔を覆った。

なにが神木として登録申請を、だ。この木の下で婚礼の儀式を行う夫婦もいた、だ。この木を誰よりも愛していたのは自分だ。

まだ九つにもならぬ頃、修道院から教会へたったひとり特別寄宿生として連れて来られ、不安と寂しさに打ちのめされていた夜、ほんのりと温かい木肌に頬をすり寄せて夜通し泣きあかしたのは、他の誰でもない自分だったのに。

「ごめんね。

ごめん。ごめん……。ごめ……」

それでもわたしは、己れが進む未来への針路を変えられない。

それがどれほど手前勝手で、この選択の陰でどれほど多くの犠牲が払われ、喜びの背中あわせに数限りない諦めと悲哀のため息が吐かれようとも、わたしは己れの行くべき道をもう変えられない。

何度練習しても礼拝の聖句がうまく覚えられなかった時、白魔法の新しい呪文の詠唱に失敗して叱られた時、八つあたりのようにつま先で何度も飴色の温かい幹を蹴り上げ……、

すぐに激しい罪悪感に襲われ、慌てて木にぎゅうっと抱きついて、まだ低く変わっていない声で叫んだのは同じ言葉だった。

「ごめんね」

窓の向こうで直立する幹の作る影が、それを合図に舞台の終幕を告げるようにぐらりと傾ぐ。

摩擦音が途切れ、なにかが断ち切られる瞬間特有の奇妙に清澄な静けさが辺りに満ちた。

琥珀色のアーチの軌跡がゆっくりと虚空に描かれ、土煙を巻き上げて巨木が大地に倒れ込む激しい地鳴りが辺りに響き渡る。

この音を、この朝を、自分は生涯忘れることはないだろう。

新たな存在になりたいと望む夢は時として、これまで自分を支えた存在を最も残酷なやり方で犠牲にする。

そうと知りながらも、ひとたび瞼の奥に描いた未来の青写真をもう捨てることは出来ず、贖罪は何より懸命に生きることだと言い訳しながら、わたしは今ここにあるわたしを捨ててゆく。

遮るものを失った窓から日が差し込み、七色に塗られた壁のステンドグラスはこれまでにない鮮やかな光を聖堂へと注ぎ始めた。

クリフトは顔を上げ、濡れた頬を手の甲でぐいと拭った。

頬を拭い、法衣の袖を下ろすと、まもなく去るこのうつくしい神のすまいに白檀の香木が甘い香りを昇らす時間が来るのを待ちながら、切り倒された大樹が巨大な台車にくくりつけられて運び去られていくのをじっと見つめた。

音は既に止んでいた。

教会に朝の光が立ち込め始めた。





-FIN-


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