別れの朝




ギッ、ギ――ッ。

目には決して見えない命を、甘い焼き菓子をたやすく切り分けるかのように裂く、耳のふもとで今日もあの音が鳴る―――――。






東からまだ朝日が昇りきらぬうちに聖堂の蝋燭すべてに火をともし、床の四隅に置かれた銀の盥にそれぞれ、倉庫から出して来たばかりの薪状の小さな香木を数本ずつくべた。

じ、じじ……と脂がくすぶった音を立て、オレンジ色の炎の中で蝋燭の芯が身をよじる。

眠っていた空気が目を醒ます。

一日の始まりの静かな儀式。

盥の中の香木はよく乾燥し、燃えが良いのでまだ火をつけないでおく。あとから起きてくる修道士のうちの誰かが、礼拝の数十分前に着火するだろう。

朝一番にやって来る参拝者たちが祈祷台に並んで祈りを捧げる頃には、広い聖堂内は燃える香木がくゆらせるかぐわしい香りで満たされているはずだ。

愛するあのお方に「これはお前の匂いそのものね、クリフト」といつもからかわれる、濃くて甘い、胸がすくような白檀の香り。

寝台から身を起こしてわずかな時間しか経っていないのに、すでに顔を洗い髪を整え、お仕着せの皺ひとつない萌黄色の法衣にきっちりと着替えている。

寝巻き姿の年若い青年から清潔で謹直な神官の姿へと変じたクリフトは、聖堂の中央に立ってまだ誰もいないサントハイム城市教会の朝の静寂にしばし耳をすませていたが、やがて蒼い双眸を動かして柱廊の東側の窓を見つめた。

ギッ、ギ――ッ。

窓枠の隙間からかすかに洩れ響く摩擦音。

一体いつから働き始めたのだろう。硝子の向こうで既に額に大粒の汗をにじませたふたりの男の手に握られた巨大な鋸が、もはや半分近く身を裂かれた薄橙色の幹の中で容赦なく前後し、庭園にそびえる一本の木を根元から切り倒そうとしている。

(あの樹齢にしては、あまりに枝が伸びるのが早いのです。はっきり申し上げまして、この庭園の広さにこの木の大きさでは、もう付け焼き刃の剪定じゃおっつかないのが正直なところ。

夏は毛虫が多く発生し、礼拝に来る子供たちもずいぶん被害に遭っているそうじゃありませんか。第一、せっかくの教会ご自慢のステンドグラスも、聖祖サントハイム降臨を描いたフレスコ画も、あの木が作る日陰のせいでろくに参拝者たちの目に留まっていないのが実情でしょう。

樹木を愛するという大地の女神ルビスには申しわけないが、いかがですか。ここらで勇気をお出しになって、ひと思いに)

「そうじゃな。ではお願いするかの」

幼い頃からの白魔法の師であり、またこの教会の長でもある大司教エルレイがいささかの躊躇もなく頷くのを聞いて、傍らで羊皮紙に鵞ペンで会話の記録を取っていたクリフトは、驚きに顔を上げた。

このサントハイム城市教会は王城直轄という、近年の大国では非常に珍しい形を取っており、ここに勤務する聖職者たちには所属するギルドがない。

従って彼らの給金もギルドを通して支払われるのではなく、王家より直接教会に与えられる運営維持費から、各々の冠位ごとに振り分けて配布される。聖職者であっても、役職に見合った報酬が国により保証されているというわけだ。

信者からの布施と国庫交付の運営維持費を正確に分割し、また不正流用を防ぐためにも、金銭授受が関わる執務やそれについての会話内容は、教会に勤める聖職者自身が逐一書面に記しておく。それは他国とは比べようもないほどの長い歴史を持つ、この教会の古くからの慣習だった。

「司教!」

「騒ぐでない」

声を険しくして立ちあがったクリフトを、山羊神カプリコーンのごとき白髭も豊かなエルレイは、視線を寄こさずに片手だけを振ってすばやく制した。

「そなたの言いたいことはわかっておる。わかった上での話じゃ」

「な……」

呆然とするクリフトを尻目に、職人ギルドより派遣された庭師の男とエルレイの間で滔々と水が流れるように、東の庭園の大樹を切り倒す日取りや時間、その仕事料と切った木を撤去するのに掛かる金額……等々の契約がまとめられた。

久方ぶりの大仕事を得た庭師は、武骨な頬を満足げにほころばせると、「では此方様のご都合がよろしければ、明日からさっそく。

参拝者様の目を無用に引かぬよう、作業は数日かけて分担、早朝より行いますので宜しくお願いします」と深々とお辞儀し、サランのギルド本部へと帰って行った。

「どういうことですか」

ようやく異を唱えることが出来たのは、結局全てが決定事項と化してしまってからのことだ。

己れの発する語気の心もとなさに内心歯噛みしながらも、クリフトは一歩も引かじと、日頃温和な表情を硬くこわばらせてエルレイ司教に尋ねた。

「なぜ、今になって突然あの木を切っておしまいになろうなどと?

東の庭園のあの木は樹齢200歳とも言われており、この教会の象徴ともいえる大切な存在です。つい先日も、子供の頃よく昇って遊んだのだと、あの木のたもとで婚礼の儀式を挙げたご夫婦がいらっしゃいました。

神木として、王家公認の特別保護樹に登録申請すべきだとの話も上がっていたはずです。それをなぜ……こんな急に、切ってしまうなど……」

「急にではない」

エルレイは白眉の下で炯々と光る灰色の瞳で、彼の愛弟子であるまだ若い神官を見た。

「急にと言えば、確かに急であろうさ。じゃがそうすべき理由はじつは急に降って湧いたものではない。

あの木を切る原因。それは実際のところ、お前にあるのじゃよ。クリフト」

「わたしに?」

クリフトは言葉も継げないほど驚いた。
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