きれいなひと
(只今この船は、ガーデンブルグから南下している。
……ということは、アリーナ様がいらっしゃるのはこっちだ)
駆け足で階段を上り、甲板に出たクリフトは迷うことなく歩みを進め、ある場所でぴたりと足を止めた。
船の舳先に整然と安置されている、携行用の薬草や乾燥食品を詰めたオーク造りの樽の行列。
萌黄色の法衣に包まれた長身を屈めて、樽と樽のすきまに入り込むと、首をもたげて奥を覗き込む。
「姫様」
「クリフト?」
薄暗がりから返って来た驚きの声に、クリフトの端正なおもてにたたえられていた心配げな色が、安堵の笑顔に変わった。
「見つけた」
「ど、どうして、ここにいるってわかったの」
乾いたオークの匂いをまとう樽に、かくれんぼする子供のように丸めた身体をくっつけ、サントハイムの王女アリーナがびっくりしてこちらを見ている。
「すぐにわかりましたよ」
「どうしてよ。お前に見つかりたくないから、こうして誰にも見えないように隠れてたのに」
「アリーナ様はお小さい頃から、悲しいことがおありになるといつも、教会の祈祷台のすきまに入り込んで膝を抱えていらっしゃいました。
荷樽のすきまも狭く、祈祷台と同じオーク製です。きっとここだろうと」
「樽なら、あっちのマストの下にも山ほどあるわよ」
「でも、南に向かうこの船の上では、ここがいちばん近いですから。サントハイムに」
アリーナは頬をふくらませてつんとそっぽを向いた。
「なによ。たまたま居場所を見つけたくらいで、わたしのことを全部わかってるみたいにうぬぼれないで」
「もちろん、そんなつもりはありません」
「お前は早く、ミネアとマーニャのところへ戻ったらいいわ。
そしてこれみよがしに化粧品作りの腕を振るって、べたべたほっぺをさわって、こんなことも出来るわたしってすごいでしょう、いい男でしょうってところを散々見せびらかしたらいいじゃない。
はやくあっちへ行って!」
「姫様」
理不尽な不機嫌さ満開の攻撃にも動じず、クリフトは長い足を折ってその場にしゃがみ込み、アリーナと目線を同じ高さに合わせた。
「わたしの気が回らぬせいで、ついミネアさんとマーニャさんに、お先に化粧品を差し上げてしまいました。
姫様直属の世話係として、調度品はまず真っ先に貴女様へ献上すべきであることを、不覚にも失念しました。
それに……、考えなしに、貴女様以外のお方のお顔に手を触れるべきではありませんでした。まことに申し訳ありません」
「そんな、取ってつけたような堅苦しい言葉で謝らないでよ。
クリフトなんか、お前なんか……、きらい」
アリーナは膝に顔を埋めた。
「そんなふうに謝ってほしくないから、気持ちがしずまるまでこうやって隠れていようと思ったのに。
自分でもわかってる。わたし、わがままで高慢ちきで焼きもちやきの、とっても嫌な女だって。
どうしてなのか解らないけど、お前のことになると、砂漠のバザーの砂粒よりも心が小さくなってしまうの。
王女育ちだからって、特別扱いされるのはいや。
でも、でもわたし、お前には……」
「たとえ貴女様が王女であろうとなかろうと、アリーナ様はいつだって、わたしだけの特別なお姫様です」
アリーナは怪訝そうにクリフトを見た。
「ずいぶんややこしいことを言うのね。それ、どういう意味」
「で、ですから、つまり……」
「わたしはお前にとって、他の女の人とは違う特別なの」
「はい」
「決めつけられたあるじで、絶対に逆らえない王女だからじゃなくて?」
クリフトはほほえんだ。
「はい。あるじで、王女だからじゃなくて。
貴女様は、なにものでもない貴女様だからこそ特別なのです」
「ふうん……、そう」
アリーナはなんとなくもじもじして頬を赤らめ、咳払いすると立ち上がった。
「船室に戻るわ。急にいなくなったりして、ミネアとマーニャに謝らなきゃ」
「ご心配なさらずとも、ミネアさんもマーニャさんもご気分を害されてはいらっしゃいませんよ。
それより、姫様。こちらをどうぞ」
クリフトは懐から化粧品を詰めた硝子瓶を取り出した。
「遅くなってしまいましたが、こちらがアリーナ様専用の化粧品です。
お色が白く、陽射しに肌が負けやすい姫様には、アボガドとネトルのモイスチャライザーをお作りしました」
アリーナは瞬きして硝子瓶を見つめ、困ったようにうつむいた。
「あ、あの……、ね。クリフト」
「はい」
「じつは、こうして飛び出して来たのは、さっき言った理由だけじゃなくて」
「なんでしょうか」
「ごめんなさい!」
アリーナは頭を深々と下げた。
「わたし、匂いのついた化粧品がどうしても苦手なの。
それにクリームや、パックを肌につけるのもきらい。顔じゅうべたべたして、息が出来なくなっちゃう気がするんだもの」
「な」
クリフトは唖然とした。
「そ……、そうでしたか。それでは、香草入りの化粧品をお作りするべきではありませんでしたね。
不手際で、申し訳ありません」
「我がままを言って、本当にごめんなさい。でも、苦手なものを無理して使うことはわたしには出来ないの。
ごめんね、クリフト」
「姫様がお謝りになることなど、何ひとつありませんよ。
はっきりおっしゃって下さり、幸いでした。人にはそれぞれ趣味嗜好というものがあります。身に直接触れるものならば、なおさら」
クリフトは立ち上がって居ずまいを正した。
「それではさっそく台所へ戻り、改めて香草抜きの、肌触りのさらりとした姫様お好みの化粧品を作らせて頂きます」
「待って」
アリーナはクリフトの萌黄色の法衣の裾を引っ張った。
「ねえ、空を見て。クリフト」
「え?」
「今夜は月がすごくきれい。わたしのお化粧品はもういいから、ここですこしだけ一緒に月を見て行かない?」
クリフトは空を見上げた。
「……ほんとうだ」
「ねっ」
アリーナは楽しそうに笑った。
「難しい名前のお化粧品を顔にたくさんつけるより、わたしはお前とこうしている方が、百倍もきれいになれるような気がするの。
きれいでいるって、肌がつるつるしているとか、体からいい匂いがするとか、それだけじゃないでしょう?
きれいなものをきれいだって解る目を持つとか、そう感じる心が体の中にちゃんとあるとか、そういうことを言うんでしょう?」
「全くその通りです」
「わたしは洞窟での探索が続いて何日もお風呂に入っていないお前も、うっかり沼地に落っこちて、髪も顔もどろどろになっちゃったお前も好きよ。
そういう気持ちを、特別だって言うんじゃないかしら?
わたしにはいつだって、どんなお前も最高に素敵だってこと」
クリフトは顔を真っ赤にし、しどろもどろに「そ、そうですか」とか「いや、あの、その」とかごにょごにょと答えた。
金色の月明かりに照らされたアリーナ姫の横顔を、そっと覗き見る。
きれいだ。
好きなものは好きだと言い、嫌いなものは嫌いだと口にする、無邪気な貴女は鏡のように裏表がなく、とてもきれいだ。
自分にとって、本当に大切なものが何なのかを知っていること。
ありとあらゆるものがあふれ返るこの世界では、簡単なようで意外と難しい。
思わず顔を赤らめてしまう素直さに、かわいらしい我がままのエッセンスと気の強さという芳しい香りをくわえた、
あなたはとても特別な、わたしのきれいなひと。
「……」
緊張にごくっと喉を鳴らし、そろ、そろ、と思いきって伸ばした広い手が、少し下にあるひとまわり小さな手に触れた。
アリーナがはっと顔を上げると、長い聖帽の下から覗くクリフトの耳が、かーっと赤くなった。
ふたつのてのひらが、おずおずと握り合わされる。
並んで月を見上げるふたりの間を、潮の香りをまとわせた夜風が吹き過ぎ、涼しいはずなのにこれ以上ないほど熱くなったクリフトのこめかみを、はにかんだ囁きがくすぐった。
ね、クリフト。
わたし、この匂いなら大好きよ。
お前の緑色の長い法衣から漂う、白檀の甘い匂い。
胸がすくほどなつかしい、サントハイムの教会の香油の匂い。
大好き。
わたし、お前の匂い、大好き。
-FIN-