Cold me!
「寒いわ」
まもなく夏が訪れようとする、サントハイムの午後。
郊外の田園には、伸び始めたばかりの小麦の苗が一面若葉色を敷き、まるで巨大な緑の絵画を眺めているかのようだ。
昼食を終え、午後の礼拝まであと数刻ある。
告解に祈祷に、机上の執務にと、一日中仕事に追われる神官の貴重な休憩時間。
「寒いわ」
城市を一望する丘に並んでたたずんでいると、ふと隣のアリーナ姫の唇から呟きが洩れ、クリフトはどきりとした。
横目でちらっと見ると、たしかに彼女は半袖から伸びた腕を寒そうに手でこすりながら、自分の体を抱いている。
「ああ、寒い……」
(こ、これはもしかして、後ろからぎゅっと抱きしめろとか、そういうことを暗に要求されているのでは……?)
思うやいなや、足元までさーっと引いた血が、あっという間に頬の中心に集まる。
不意に湧きあがった疑問に、あまり丈夫とはいえない心臓が一気に鼓動を速めた。
空のまんなかに太陽がきらきら輝き、風はない。
暑さを好み、熱帯雨林から一歩も出ないという南国のオウムだって、今日が寒いとはひとことも言わないだろう。
恋人はいつも直球勝負、こんな遠まわしな手段を使って甘えるような性格では決してない。
くっつきたければ人目もはばからず子犬のように飛びついて来るし、機嫌を損ねれば「あっちに行って!」と道端の毛虫のように邪険に追い払われてしまう。
だからこうしてふたりきりで、やろうと思えば思いきりべたべたするのが可能な状況でも、彼女に一向にその気配が感じられないから、並んでぼーっと突っ立っているだけなのだ。
ほんとうは、自分から抱きしめてみたい。
ほんとうは、いつだって触れていたい。
でも、もしも伸ばした手を払いのけられたらとか、「わたし、今はそんな気分じゃないの」と嫌悪のまなざしで見られたらとか、
マイナスの想像ばかり浮かんでは消えて、実際に行動に移す前から不戦敗、なけなしの勇気はいつももろく崩れ去ってしまう。
(いや、駄目だ!大の男たるもの、時には強引にふるまうことも必要だ。
それにこの所お互いに忙しくて、こうしてふたりきりになるのもずいぶんと久しぶりのこと。
わたしとアリーナ様は、恐れ多くも今は恋人同士と呼ばれる仲。べつに悪いことをしているわけじゃない。
後ろから抱きしめるくらい、なんてことないはず。そう、なんてこと……)
思いきってこわばった指をそろそろと動かし、ぎこちなく彼女の背中に掌を差し伸べようとする。
「ねえ、クリフト」
「は、はいっ!!」
だがその瞬間、くるりとアリーナ姫が振り返ったので、クリフトは驚くべき俊敏さで手を引っ込め、その場を飛び上がった。
「な、な、なんでしょうか!」
「どうしたの、そんなに焦った顔して」
「な、なんでもありません。それよりどうかなさいましたか、姫様」
「どうかしてるのはお前よ。茹でだこみたいに真っ赤になって、なんなの?」
アリーナは訝しそうに眉をひそめたが、ためらいがちに言った。
「あのね……わたし、寒いの。
どうしたのかな、さっきからすごく寒いのよ。それに頭が痛いの」
「頭が?」
それを聞いたとたん、体じゅうに散らばった動揺が嘘のように一瞬で消える。
クリフトの顔がみるみる厳しく引き締まった。
「姫様。ご無礼を失礼致します」
長身を屈め、あれほど触れるのを迷ったアリーナの額に自分の額を押しあてて、首に手をあてがい口を開けさせる。
素直に従うアリーナの喉を覗き込み、検分するように確かめると、クリフトは何も言わずに突然、彼女の体をひょいと横抱きにかかえ上げた。
「ちょっと、クリフト……!」
「ひどい熱だ。どうして気付かなかったんだろう。すぐに城へ戻りましょう。喉も赤く、お風邪を召されてしまったようです。
わたしがついていながら姫様のご不調を見過ごすというていたらく、まことに面目次第もありません」
「待ってよ。もう帰るの?」
「体を温かくして、ベッドでお休みにならなくては。風邪に効く薬草を煎じます。
飲んでぐっすりお眠りになれば、すぐに良くなりますよ」
「いやよ。わたし、まだここにいたい。お前と」
「駄目です。熱が下がるまで外出は叶いません」
お前ともっと一緒にいたいの、と続けたかったのに、にべもなく遮られる。
でも力強く抱き寄せられ、頬にぶつかる彼の胸の硬さが心地よくて、アリーナはそれ以上さからうのを止め、おとなしく頭をもたせかけた。
クリフトは一刻も早く城に戻ろうと、アリーナを抱きかかえたまま前を向いて黙々と歩いている。
こんな時だけは、いつもの気遅れがちな彼とは別人の行動力を発揮するらしい。
形よく尖った顎先から漂う、甘い白檀の香り。
熱のせいだけではない熱い痺れが、アリーナの喉にじわりとこみ上げた。
「……いい匂い。
最初から、さっさとこうすればよかったのに。馬鹿なクリフト」
「え……?なにかおっしゃいましたか、姫様。お苦しいのですか」
見降ろす心配げな蒼い瞳に、アリーナは首を振った。
「ううん、なんでもないわ」
「あと少しの辛抱です。まもなく城に着きますゆえ、もう少々お待ち下さい。
わたしがお傍におります。なにも心配はいりません、アリーナ様」
そう言うとクリフトは生真面目に唇を引き結び、さらに足を速めた。
端正に整った横顔を見つめていると、アリーナの胸にふと小さな悪戯心が湧きあがった。
「ねえ、クリフト」
「はい」
「風邪ってね、薬も魔法も使わずにたちどころに治す方法があるのよ。知ってる?」
クリフトはきょとんとした顔でアリーナを見降ろした。
「そのような画期的な治療法があるのですか」
「だとしたら、どうするの?」
「わたしはその方法を知りませんが、もしもそれが真実ならば、すぐにでも試す価値はあるでしょうね」
「じゃあ、今すぐ試すわ。こうするのよ」
「!」
アリーナが伸ばした両腕がクリフトの首に回され、唇と唇が重なる。
クリフトの足がぴたりと止まった。
彼女を腕に抱いたまま立ち尽くし、長い沈黙が続いた後、先に顔を離してはあっと息をついたのはアリーナの方だった。
「……ね。こうして、誰かに移すと病気は治るの。
これで明日風邪を引いてるのは、お前のほうだわ」
「……それは……よかった、です……」
クリフトは小さく息を弾ませながら、呆然と呟いた。
「確かに………なにやら、もう熱が上がって来たような気が」
「あいにく、今の風邪はとてもしぶといの。一回じゃ全部移らないみたい。だから」
だから、もう一回。
アリーナの閉じたまぶたから伸びる睫毛が、クリフトの頬を柔らかくかすめる。
もう一回、今度はお前から。
病気も何もかも、わたしから全てを奪ってしまうくらい、もっと強く、深く、何度も。
クリフトはアリーナの頬を恐る恐る指で持ち上げ、彼女が望むとおりにした。
だが感情が高ぶるあまり、それは次第に情熱的になりすぎてしまい、アリーナが「クリフト、苦しいよ」ともがくと、はっとして「す、すいません」と頬を赤らめた。
丘を下り、森を抜け、白亜のサントハイム城はもう目と鼻の先。
なのに、ふたりが数歩進んでは「もう一回」と足を止めるため、結局到着はそれからずいぶん後のことになってしまった。
そして翌日、当然と言えば当然ながら、アリーナ姫は元気一杯の完全回復を遂げる。
代わりに城下直属の教会には、ひっきりなしにくしゃみを繰り返す風邪引き神官の姿があった。
皆がうろんげな目つきで見つめる中、彼は熱で潤んだ瞳でうっとりと宙を見上げ、こう呟いたという。
「ああ、寒い……」
でも、寒いのも幸せ。
寒さでいとしい人の温もりを知る、それは身体じゅうが震えるようなめくるめく幸せ。
「ああ、神よ。寒いってなんて素敵なんだろう。
こんな風邪ならわたしは、一万回だって百万回だって……いや、永遠にだって引いていたい!
この命のすべてを賭けてお慕いしております、姫様!ひめさ………ひ、
ひ、ひ、ひ……ひえっくしゅん!」
-FIN-