kiss and cry
サントハイム王城を、輝く太陽が見下ろす。
朱赤に染められたびろうどの絨毯を姿勢よく歩く、昼まだ来の午前中。
抜けるような青空に、国王の居城の威容を囲む新緑が映える。
振り返らずにさっさと進んで、城正門の園庭に到着すると、後ろから慌てふためく家臣達が遅れまじと駆けて来た。
「へ、陛下、どうなさったのですか?
執務の途中に突然、園庭に行きましょうなどと」
「まだ午前の決裁事務は終わっておりませぬぞ!国王陛下!」
皆に陛下と呼ばれた当の人物は、涼しげなおもてに悠然とほほえみを浮かべ、聞こえているのかいないのか、家臣らの制止も気にせず園庭を歩き始めた。
まもなく秋を迎える、西北の大国サントハイム。
海風が吹き付ける王国城市は冬が厳しいことで有名だが、晩夏の暑さとて決して侮りがたい。
突然の国王のお成りに、陽射しに汗を流しながら作業に従事していた庭師の顔には、ただならぬ緊張が走った。
慌てて登っていた木から飛び降りると、地に額をすりつけんばかりに平伏する。
「へ、陛下!ようこそお越しなされませ。
貴き国王陛下におかれましては、本日もまこと、ご機嫌麗しゅう……!」
「そうおっしゃる、あなたはどうなのですか」
「はっ……?」
地面にうずくまった庭師の男は、突然の言葉に驚いて思わず顔を上げた。
およそ数月前に婚礼を挙げたばかりのアリーナ王妃の伴侶、神の子供の名高き新王が、地に膝をついて優しい目でこちらを見ている。
サファイアを切り取ったような、くっきりと蒼い瞳。
若々しい顔立ちや、まなじりに宿す穏やかな光は、いかめしい国王というにはずいぶん雰囲気が柔らかい。
やんごとなき高貴な王と直接目を交わすのなど初めてで、なんと無礼なことをしでかしてしまったのか、これでは打ち首も免れまいと、庭師の男は蒼白になった。
「も、申し訳ありません。お許しくださいませ。
卑しい庭師でありながら、陛下をじかにご拝顔するなど、あまりに身の程知らずな真似を……!!」
「もしも言葉を交わすのに視線を合わせるのが身の程知らずなら、わたしはこの国中の人々に、ぜひ積極的に身の程知らずになって頂きたいと思いますよ」
「は、はぁ……?」
蒼い目の若い王は、庭師の困惑など意に介さぬようにほほえんだ。
「そんなことより、ずっと気になっていたのです。
あなたはこのひと月のあいだ毎日、たったひとりで園庭の整備をなさっていますね。
この広さでは、いかに練達な職人の腕を持ってしても、ひとりでは手に余ってしまうでしょう。お仕事仲間はいらっしゃらないのですか」
「あ、あいにくと、過日のテンペの山崩れの復旧作業に、人手を取られていまして」
庭師は緊張で言葉をつかえさせながら説明した。
「サントハイム王城門の園庭整備も、そんな理由で今は無理だと申し上げたのですが、
お城のお大臣様がたに、どうしても今月中にやれ、そうでないと厳しい罰を与えるぞ、と言われたものですから……」
クリフトは眉を上げた。
「……そうですか。厳しい罰を」
くるりと後ろを振り返ると、背後霊のように付き従っている大勢の執務官や大臣たちが、揃ってぎくっと視線を泳がせる。
若い国王は肩をすくめた。
「それが真実ならば、わたしも罰を受けなければなりませんね。
わたしはまがりなりにも今現在、この城の当主と呼ばれる身です。
自分の住まいの整備くらい、自分で行うのが当然ですから」
「へ、陛下っ?!何を……!」
後ろにずらりと並んだ家臣の行列が、驚いて叫び声をあげた。
若い王は分厚い紫の王のマントを外して執務官に手渡し、その下に着ていた黄金のローブも脱いで、さっさと身軽な木綿のチュニカ姿になってしまった。
常日頃着込んでいる王衣をそうやって全部脱ぐと、彼本来のすらりと均整の取れた長身が顕著になる。
国王は天に向かってうーんと両手を伸ばし、嬉しそうに「ああ、軽くなった」と呟いた。
平伏する庭師に近付いて、「わたしも手伝いましょう」と物柔らかに鋏を取ると、家臣に気付かれないようにこっそり耳打ちする。
「あなた、アキレスさんですね。
城下の、西の五番街のエルゼさんのお父様の」
庭師の男は目を丸くした。
「ど、どうしてそれを……?」
「しっ、お静かに」
若い王は唇に人差し指をあてた。
「じつは一年前、教会でエルゼさんの生まれたばかりのお子様に洗礼を施させて頂いたのは、わたしなのです。
お父上のアキレスさんは、もう長いことエンドールに出稼ぎに行ってらっしゃると聞いていたのですが、サントハイムに戻られていたのですね。
お顔がそっくりなので、すぐにわかりました。ご不在の間、エルゼさんはあなたの持病の腰痛を、いつも心配なさっておいででしたよ。
その後、お加減はいかがですか。もし御迷惑でなければ、よく効く薬草などお渡しします」
「な、な、あんた……それじゃあんたが、王様になったっていう教会の聖職者さんか!」
庭師のアキレスは、世界の裏側にまで響くような声で叫んだ。
「エルゼが、しきりに手紙に書いていた。
生まれたばかりの赤ん坊に、じつに懇切丁寧な洗礼を施してくれ、病気のたびに薬を煎じてくれた、蒼い目の優しい神官さんがいるのだと。
わたしはずっとこの国を離れていたので、詳しくは知らなかったが……、
じゃあアリーナ姫様と結婚して、民間からお城へ入った新しい王様って……クリフトさんのことだったのか?」
「陛下!なにをなさっているのです」
庭師の声を聞くと、後ろに並んだ大臣たちの目が、一様に厳しくなった。
「そのような下賤の者と、親しく口を利いてはなりませぬ。
失礼ながら、かつての国王あらざる時分のお話は、なかった過去として全て忘れて下さいますようにと、家臣一同口を酸っぱくしてお頼み申し上げたはずですぞ!
偉大なるサントハイムの国王が、じつは一介の神官だったなどという不名誉な話がいつまでも流布するようでは、開闢二千年の王家の威信に関わります。
さあ、今すぐ元通りにお召し物をお着けになって、城へお戻りくださいませ」
「嫌です」
国王のあっけらかんとした返答に、大臣たちは耳を疑った。
「は……い、今なんと?」
「わたしは、神官だったことを不名誉だとは思っていません。
勿論、これからも思いません」
クリフトはほほえんだ。
「国とは、名誉と威信で作られているのではありません。
同じ血と肉を湛える人間、生きる場所こそ千差万別であれ、そのいとおしい命の価値に、上も下もありません。
汗を流し、痛みをこらえる民に手を差し伸べることが出来ずして、いったい何の国王の意味があるでしょうか。
わたしはずっと、石造りの城に閉じこもって積み上げられた国務を粛々とこなすことが、王たる者の務めだと思い込んでいました。
卑しくも一国の王たる者、みっともない真似をさらしてはならないし、最高施政者として無様な失態を見せてはならないと。
命に上も下もないと思いながら、いつのまにかわたし自身が、高貴な身分についたという見栄と傲慢に囚われ、己れの行うべき道を見失っていたのです。
ですがわたしは、もう迷いません。
不自由に絡め捕られた黄金の鎖を外す鍵は、わたしこそが持っている。
わたしはこれまでの国王に倣ってではなく、わたし自身として出来る勤めを考え、果たします。
わたしは高貴な血を持つ聖なる王ではありません。
わたしはかつて神官で、今はたまたま王であるだけの、ただの人間です。
人は生きる限り成長を続け、前へと歩まねばならない。
流した涙は、前に進むための力とならなくてはならない。
そう、愛する妻が教えてくれました。とても彼女らしいやり方で」