kiss and cry
「あ、えーと、これはね」
アリーナはさっと両手を背中の後ろに引っ込め、急いで笑顔を作った。
「全然、なんてことないの。ただ、慣れないことを急に始めたから、ちょっとだけ失敗しちゃって。
こんなのへいき、へいき。薬を塗ったからすぐに治るわ。
なにごとも練習と経験だもの。明日からはこんなこと絶対にないから、心配しないで」
「アリーナ様……」
「ナイフの握り方に気をつければいいのね。待ってて、クリフト。
わたし、今度こそちゃんとむくから」
見られたくないものを見られてしまったというように、アリーナはこちらに背を向け、不器用に林檎と格闘し始める。
胸の奥のなにかを強く掴まれて、クリフトは目の前の小さな背中を見つめた。
料理どころか、髪さえ満足に結ったことがない、生粋の王女育ちのアリーナ。
その彼女がこのように行き届いた朝食をたったひとりで整えるのは、一体どれほどの労苦を伴ったことだろう。
昨夜、彼女はベッドに横たわる自分を残して寝室から出て行ったが、そもそもあれからすこしでも睡眠を取ったのだろうか?
なぜアリーナが突然、こうして慣れない料理を手づからこしらえてくれたのか、クリフトには痛いほどわかった。
おそらくこれが、昨夜の涙に対する彼女の答えなのだ。
悩むよりも先に、今の自分に何が出来るかを考えて出した答えなのだ。
そのままでいる限り、悩みはただの悩みで止まる。
決して逃れられない場所もある。
どうしたって変えられないものもある。
でも、泣くよりも他にやることがある。
誰にも聞かせずひっそり呟いた悲しみを、言ってもしょうがないことだと投げ出したりせずに、
彼女はもう、選択肢のない問いかけに、前に進むための答えを自分で出している。
「アリーナ様……」
その瞬間、自分でも呆れるほどの涙があふれ出し、ぽろぽろとクリフトの頬を伝った。
「え?」
むくというより、ほとんど果実ごと皮を切り取り、林檎をぐんぐん小さくしていたアリーナが、振り返ってぎょっとした。
「ど、どうしたのっ、クリフト?!
なんで泣いてるの?
これ、タマネギじゃなくてただの林檎だけど」
「アリーナ様、愛しています。
ずっとわたしの傍にいて下さい」
クリフトは、自分より頭ふたつ以上も背丈の小さいアリーナを、胸に押し込めるようにぎゅっと抱きしめた。
「……クリフト?」
「あなたはいつも、ちっぽけで愚かなわたしを、こんなにも温かな心とひたむきな希望で導いてくれる。
わたしは、弱い。
弱い人間だから、今まで積み重ねて来たものをひとつずつ確かめながら生きることで、ようやく自分の中に、わずかながらの自信を見出すことが出来る。
だから、こうして全く違う場所で、突然全く違う自分にされたことが、まるで見知らぬ暗い洞窟に置き去りにされたように、怖かった。
不安だった。
決して叶わないと解っていながら、前の自分に戻れたらとさえ、いつしか望んでしまっていた。
でも、あなたは違う。
あなたはいつも、今を生きるために前を向く。
それがどんな言葉より雄弁に、わたしに教えてくれる。
決して人前で見せることのない、勇敢なあなたの流すうつくしい涙こそが、
戻りたいという後悔を、進まなければという力に、変えるのだと」
「人前で見せないって、お前、今おもいっきりわたしの前で泣いてるじゃない……」
アリーナはわけがわからず途方に暮れて、仕方なく後ろから回されたクリフトの腕に、頬をことんともたせた。
「どうしたの?なにか、悲しいことがあったの?
お前が、わたしの解らない難しい言葉で喋るのはよくあることだけど、でも起きぬけに突然、涙ながらにっていうのは、子供の頃からの付き合いでも初めてだわ」
「申し訳ありません」
クリフトは急いで指で涙を拭い、照れくさそうに顔を赤らめた。
「まだまだ、貴女様のように強く凛々しいお心を持たぬ未熟者ゆえ、みっともなく恥をさらしてしまいました」
「ううん、いいのよ」
アリーナはくるりと身を翻し、クリフトの胸にそっと顔を埋めた。
「ねえ、クリフト」
「はい」
「わたしたち、もうお姫様とそのお供の神官、じゃないでしょう」
「……はい」
「王様とか王妃様とか、身分が高いとかどうとかも関係なしね。
どこの家でも一家をまとめるあるじは、そのおうちの王様みたいなものだもの。
知ってる?わたしたち、夫婦なんだよ。クリフト。
これってすごいことなの。
血も繋がっていないし、育った家も、両親も、毎日食べて来たごはんも全然違うのに、わたしたち家族になったの。
空と大地に向かって、死ぬまで、いいえ、死んでも一緒にいますって誓いを交わした、誰も割り込むことの出来ない家族なのよ。
だから、泣いてもいいの。それはちっともみっともなくないし、恥ずかしいことでもないの。
覚えていてね、クリフト。
あなたは世界でたったひとり、わたしの前だけでは、どれほど泣いてもいいんだよ」