kiss and cry
そして気がつけば、いつのまにか本当に眠っていた。
窓から注ぐ朝日が、眠りに境界線を引く視界を照らす。
満開の花びら舞う金木犀のような、鼻孔を撫でるかぐわしさに誘われて、クリフトは目を醒ました。
「おはよう。クリフト」
「……おはよう、ございます……」
瞼をこすりながら起き上がり、声のする方へぼんやりと顔を向ける。
やにわに意識が覚醒し、クリフトは蒼い目を驚きで大きくみはった。
ソファの前に鎮座した、大理石の豪奢なテーブル。
磨き抜かれた艶やかな天板の上に、湯気を立てる朝食が所狭しと並べられている。
焼きたてのベーグル。健やかな土色のライ麦パン。
よく煮込まれた、挽き肉入りのスープ。朝採り野菜とチーズのサラダ。木籠に山と盛られた果物。
そしてクリスタルのティーポットに注がれた、たっぷりの温かい紅茶。
中には杏や木苺、林檎、色とりどりの果物が重なるように踊っている。先程からのかぐわしさの正体はこれだ。
そして、それら心尽くしの朝食よりもクリフトの目を引いたのは、長い髪を首の後ろで結わえて皿を並べる、テーブルの傍らのアリーナの姿だった。
「ど……、どうなさったのですか。そのお姿は?」
「えへへー、えっとね」
アリーナは気恥ずかしげに顔を赤らめ、片頬に愛らしいえくぼを浮かべてはにかんだ。
「今日の朝ご飯は、わたしが作ったの。
お料理する時は身ぎれいにして、髪の毛をちゃんと結ばなくちゃいけないでしょ」
クリフトはぽかんとアリーナを見つめた。
櫛目の通ったうつくしい鳶色の髪は、だが結び目の上がところどころ不自然に膨らんでいて、お世辞にもきれいに結ってあるとは言い難い。
おそらく、いつもは身の回りすべてのことを侍女に任せている彼女が、今日は自分の手で髪を結んだのだろう。
高貴な貴婦人が身にまとう、紫のレースのドレスを無造作に肘までまくり、胸には木綿のエプロンを巻いている。
「さあ、食べて。朝ごはんをしっかり食べると、その日一日の元気が出るわ。
知ってる?朝の果物は金なの。食べれば体にむくむく力が湧いてくるのよ!
だから、たくさん食べて今日も頑張ってね、クリフト。
あ、でも、もちろん無理はしないで。
やらなければならないことを長く続ける時は、まずは自分の頑張れる範囲で頑張るの。
頑張ることを、無理に頑張らなくてもいいのよ。
うーん、なんだかややこしいわね」
呆気に取られているクリフトに、アリーナは明るく笑いかけた。
朗らかに紅潮した頬は珊瑚色に輝き、どこをどう探しても、昨夜の涙の残滓は見あたらない。
「その……毎朝食事の給仕を請け負って下さる、カーラさんや侍女の方々はどちらへ?
それに、この料理を本当に全て、アリーナ様が?」
「本当にもなにも、ぜんぶ本当よ。わたしが嘘つくわけないじゃないの」
アリーナは唇を尖らせて頷いた。
「侍女たちには、今日から朝は全員退出してもらうことにしたの。クリフト、起き抜けくらい人目を気にせずくつろぎたいでしょ。
これから毎朝、クリフトの朝食はわたしが作るわ。
料理人の仕事を取らないでください。お願いですからアリーナ様は、朝くらいおとなしくしていて下さいってカーラに猛反対されて、正直だいぶもめたけど、最後は納得してもらったのよ。
朝くらいおとなしくって、あれ、どういう意味なのかしらね」
アリーナは不服そうに言った。
「妻が夫の食事を作るなんて、街じゃごく当たり前のことだわ。
そんなことも許されないなんて、だからなにかにつけて勿体ぶるお城は嫌いなのよ。
とにかく、こっちに来て食べて、クリフト。わたし、林檎の皮をむくから」
「は、はい……、わあっ!危ない!」
クリフトは叫び、猛然とベッドから飛び降りると、大慌てでアリーナの手から果物用ナイフと林檎を奪い取った。
「なんというナイフの握り方です!刃先がおもいきり指に向かっているではありませんか。
そんな握り方では、林檎の皮どころか貴女様の御手が……」
言いかけて、はっと口をつぐむ。
アリーナの小さな手は、既に指先のあちこちに切り傷が赤い破線を描いている。
手の甲が痛々しく腫れているのは、おそらくかまどを使った時に被った火傷だ。
クリフトの顔が曇ると、アリーナは慌てて、両手を背中の後ろにひっこめて隠した。