kiss and cry
「ごめんね、クリフト」
ひそやかな哀しいささやきが、夜咲く月見草の葉先を滑る露のようにひたひた、頭上からこぼれ落ちてくる。
眠ったふりをするクリフトの頬が、にわかに緊張でこわばった。
「……こうして間近で顔を見ると、お前、このところずいぶん痩せちゃったわね。
わたし、知ってるの。お前は本当は教会でずっと、神様にお仕えするお仕事を続けたかったのよね。
でもわたしと結婚したせいで王様にさせられて、毎日お城に閉じ込められて、昔のように自由な空気を吸うことはもう出来ない。
ここで王族として、身分に縛られて一生を暮らして行くことがどれほど窮屈なのか、わたしが一番よく知ってる。
自分があれほど嫌がったことを、大好きなお前に強いているのは、わたしなの。
ごめん、ね。
ごめんなさい……クリフト」
額の上に温かいしずくが、ぽとん、ぽとん、とリズムを刻んで落ちる。
その瞬間、鋭い痛みに胸を衝かれ、クリフトは即座に目を開けて起き上がろうとした。
違うんです!
そうじゃない。
あなたがわたしのために悲しむことなんて、この世に何ひとつもありはしない。
神にどれほどそしられようとも、黄金の冠の重さに押しつぶされようとも、あなたの傍にいるために選んだ運命を、ただの一度も悔やんだことはない。
過ぎゆく日々と共に変わる暮らしにいつまでたってもなじめないのは、過去を懐かしんでは憂いてばかりの、己れの弱さのせいだから。
時間を止めることは出来ないのに。
過去に戻ることも、昨日の自分をやり直すことも出来ないのに。
あなたとわたしが共に過ごしている、たった今この時間さえも、決して永遠ではないのに。
けれどクリフトはやっぱり眠ったふりをしたまま、目を開けることも、起き上がることも出来なかった。
涙のしずくが散々こぼれた後、最後におずおずと降って来たのは、彼女の唇だったから。
小鳥が羽根を休めるように、数秒だけふわりとくっついた唇が離れると、ずずーっと鼻を啜る音が盛大に響く。
「あーあ、泣いちゃった。駄目だなあ、わたしったら。
泣いたって、何にも変わりはしないのに。自分を可哀想に思うのが、一番嫌いなことだったはずなのにね。
このところゆっくり外出も出来なかったから、気が弱くなってるんだわ。明日は気分転換に散歩に行って、美味しい外の空気を思いっきり吸おうっと。
クリフトも誘いたいけど、きっと無理だよね。朝からとっても忙しいもの。
明日も王様としてこの国のため、力を尽くして頑張らなくちゃいけないんだもんね。
………力を尽くして、頑張らなくちゃ、
頑張る力………。
そっか、そうね……」
やがて気配が離れると、何かを考え込むようにぶつぶつとひとりごちる声が、徐々に遠くなった。
アリーナ姫の足音は、ぱたんと閉じた扉の向こうに消えた。
それを合図に、クリフトの瞳がそろそろと開く。
急に明るくなる視界。真正面に広がる、巨大なベッドの天蓋。
力を込めて目を閉じていたせいで睫毛が震え、軽く首を振っていなすと、さっき彼女が落とした涙が頬をすべり落ちる。
(……馬鹿だ、わたしは)
なにが、王様というものはとにかく疲れる、だ。
生まれながらの王族として生きて来た、彼女の苦しみも理解せず、自分はほんの数ヶ月、窮屈な暮らしを送っただけでもう根を上げている。
そのくせ、いかにも解ったような口ぶりで、小さな頃からことあるごとに彼女にお説教を繰り返して来た。
もっと王女らしくなさって下さい。
自分勝手な行動はお慎み下さい。
高貴な王族たるご自覚をお持ちになって下さい。
(一番の馬鹿は、わたしだ……!)
己れの弱さを棚に上げ、他人にばかり偉そうな口を利く、自分の驕慢さが心底恥ずかしい。
クリフトは寝返りを打ってベッドにうつぶせると、枕の下にがばっと顔を突っ込んだ。
洗いたての純白のシーツの清浄な香りが、押しつけた鼻を毛羽立ってくすぐる。
それはとても甘いのに、なぜかつんと酸っぱく鼻の奥に沁みて、暗闇の中でクリフトはひとり、唇を噛んだ。