kiss and cry
「クリフト!起きなさい」
鋭く叱咤する声。
はっとして目を開ける。
憂悶に耽りながら夜空を見上げた後、もう一度ソファにもたれ、ほんの一瞬目を閉じたつもりが、いつのまにか深く寝入ってしまったらしい。
だが、目覚めなければという意志に反して瞼は鉛のように重く、目を開けたがすぐに脱力して、クリフトは再びとろとろと眠りのうちに沈みこんでいた。
「もう、クリフトったら……駄目ねぇ。最近ほとんど毎日、ソファで寝ちゃってるじゃないの。
ここからベッドまで、ほんの五歩よ。どれだけ疲れてたって、歩けない距離じゃないでしょうに」
閉じた視界の向こうで、呆れ返ったため息がひとつ。
マントを払う衣擦れの音は、不機嫌そうに両手を腰にあてたようだ。
「まったく……。またわたしに、眠りこんだお前をベッドまで抱えて行けっていうのね。
いいわよいいわよ。はっきり言ってね、お前みたいなひょろひょろのっぽなんか、わたしの腕力をもってすれば一度に五人は抱えられるんだから」
唇からこぼれるのは宵闇さえ飛び越え、辺り一面を夏の陽射しのような眩しさで照らす声。
命よりいとおしいその呟き、いとおしいその吐息。
誰よりも慕わしくてならない、サントハイム王家の誇る真珠、一粒種のアリーナ王女。
いや、もう一粒種でもなければ王女でもなく、彼女はクリフトと婚姻を交わしてから、王妃と呼ばれる国内最高の貴婦人になった。
だがもちろん、それは位階の上でのことであり、相変わらずかつて冠したおてんば姫の名に恥じぬ天衣無縫ぶり、じゃじゃ馬ぶりは健在だ。
(なんだって。眠ってしまったわたしを、いつもアリーナ様が抱えてベッドへ!?)
突然耳に入った彼女のひとりごとに、まどろみながらクリフトは驚く。
このところ、疲れてすぐソファで眠りこんでしまうことは自覚していたが、朝目が覚めるとちゃんとベッドにもぐっているから、夜中に寝ぼけつつ自分で移動していると思っていたのだ。
一気に意識が覚醒し、慌てて飛び起きようとしたクリフトの頭に、だが不意にぴたっとなにかが触れた。
それが目を開けるタイミングを失わせた。
温かい感触。
これは、てのひらだ。
羽根のように優しく、頭のてっぺんを何度も何度も往復する。
「まあ、しょうがないか。こんなにぐっすり眠っちゃうくらい、毎日一生懸命働いてるんだもんね。
よしよし、おねんねのクリフトくん、いい子、いい子。
今日も一日よく頑張りましたねぇ、おりこうでしたねぇ……なんちゃって。えへへ」
(く……っ)
自分が何をされているのわかった瞬間、足元からこめかみまでかーっと羞恥の血が昇る。
クリフトは硬く目を閉じ、必死に寝入ったふりを装った。
どうやらアリーナは、ソファに身を沈めたクリフトの前で背を屈め、こちらを覗き込んでいるらしい。
彼女が小さくたてている呼吸の音が、耳のすぐ間近で聞こえる。
「寝顔、かわいいな。起きてる時ももちろん好きだけど、クリフトの寝顔、とってもかわいいのよね。
伏せた睫毛が長くて、いつもちょっとだけ唇が開いてるの。うふふ」
「………」
「かわいいよ、クリフト」
………こ、これは、めちゃくちゃ恥ずかしい……!
でも母親に手放しで甘やかされている子供みたいで、なんだかちょっと、いやかなり、嬉しいかも。
思わず唇がてれっと緩みそうになり、クリフトは慌てて頬に力を入れた。
「ん?今動いた?もしかして起きてる?クリフト」
いいえ、起きてません、起きてませんよ!
わたしは生まれたての子犬のようにぐっすり眠っています。
だからもしも、この偶然の悪戯を神がお赦しになるのならば、もう少しだけ聞かせて下さい。
目覚めているわたしの前では決して語ってくれない、あなたの心の宝箱の秘密の調べを。
もっと、もっと、溢れ出すほど、聞かせて。
いとしいあなたがひとりきりの時だけ奏でる、胸の奥の楽譜にこっそり描いた、輝くようにうつくしい秘密の歌を。