flavor of love
「ブライ様、そんなに怒らないでください。
貴方様のその雷鳴のようなお声で叱られると、わたしはいつも、小さな子供の頃に戻ったような気がしてしまいます。
もう、大人なのですから。お化け鼠を退治しに、姫様と真夜中にサントハイムの城下街を脱走したあの頃とは違うんですからねぇ」
「マーニャさん、そのあられもない薄着はいいかげんお止めになった方がいいですよ。
そもそも、女性はあまりお体を冷やしてはいけないのです。
血の道の病を引き起こす原因にもなりますし、将来的に難産のもとにもなってしまう」
「ミネアさん、
………」
酔っ払ったクリフトが徒然に紡ぐ、ここにはいない導かれし仲間と交わす言葉。
呟きがふと途絶えたので、アリーナは不審に思ってクリフトの顔を覗き込んだ。
クリフトは据わった目でアリーナを見つめながら、その向こうのかつて共にあった仲間のまぼろしと対峙していた。
さっきまでなかったやるせない光が、まるで破れ目から隠し物が落ちて来たように、唐突に蒼い瞳に宿る。
(……なによ。ミネアが、なんなのよ?
どうしてミネアの時だけ、何も言わないのよ)
「……」
クリフトはほんの少し、どこかが痛むように顔を歪めた。
「………ありがとう、ミネアさん。
わたしをお許しください」
「え?」
「ああ、ドラン、君はぐおーんぐおーんと、何もない時もうるさく騒ぎすぎだ。
真に賢い鳥獣とは、無闇に鳴いたりはしないものなんだよ、解っているかい」
透明な突風が吹き込み、一瞬だけすべての音が遠のいて、また元に戻る。
クリフトはもう自分の言ったことを忘れたように、ふたたび焦点の合わない目をアリーナに向け、陽気に語った。
ふいにアリーナの胸に、わけのわからない不安がこみ上げた。
急いでベッドを降り、床に寝ころんだクリフトに覆いかぶさるように抱きつく。
「……ん、あれぇ、姫様?」
「もう姫様じゃないわ、わたし」
アリーナはぎゅっとクリフトの首に両手を回した。
「わたしはもう、お前と身分の違う、手の届かないお姫様なんかじゃない。
わたしとお前は結婚したの。誰にも割り込めない……ミ、ミネアにだって割り込めない、神様に認められた夫婦になったの。
だから、お前はわたしだけのもの。絶対に誰にも渡さない。
そう思っていいんでしょ?クリフト……」
「いーいですよぉ、どうぞどうぞ!
どんどん思って下さい。どんどん」
妙に切迫したアリーナの声音に、クリフトの、音程のふらつく暢気な声が重なった。
「わたしはいつだって、爪の先から頭の先までぜんぶ、どこもかしこもアリーナ様のもの!です」
「な、なんだか軽いわねえ……まあ、いいけど」
その時、ため息をついたアリーナの耳に、前触れなく囁きが寄せられる。
「そうおっしゃる貴女は、どうなのですか」
「え?」
「そういう貴女は、全部わたしのものなのですか?」
クリフトは喉声で笑うと、ぱっと体を起こした。
アリーナの腕を掴んで自分の胸の下に引き入れ、体ごと折り重なるようにして床に倒れ込む。
「クッ、クリフト?!」
「アリーナ様、貴女の全ては、ちゃんとわたしだけのもの?」
「ちょっと待っ……」
戸惑う言葉を遮るように、クリフトの唇が、荒っぽくアリーナの唇に重なった。
息もつかせずに身をうずめるキスが、意識をあっというまに眩暈の向こうに連れ去る。
甘くて、熱い。
お酒を飲み過ぎた彼の唇は、いつもと違う、濃い葡萄の香りに浸されている。
こぼれる吐息も、痺れるほど熱い。寄せた体も、火のように熱い。
その唇が段々下にさがって行き始め、アリーナはたまらず悲鳴を上げた。
「ま、待って。
クリフト、待っ……!!」
クリフトの手のひらが、するりとすべり降りた。
「ここも、わたしのもの?」
アリーナはもう、物も言えなくなった。
「アリーナ様、答えて下さい。
わたしはぜんぶ、お前のもの……と、誓って」
じゃあ、もしもそれを口にすれば、彼はこの小さな悪戯を止めてしまうのだろうか?
自分がそれを望んでいるのかどうかもわからなくなり、アリーナは必死に唇を噛んだ。
するとクリフトが突然身体を起こし、大切にしていた花の蕾が開き初めるのを確かめるように、じっとアリーナの顔を覗き込んだ。
(クリフト)
笑っている。
床に肘をつき、蒼い目をきらめかせ、白い歯を見せて、とても楽しそうに笑っている。
きっと、世界中でわたしだけしか見ることの出来ない、サディスティックに意地悪で、とほうもなく魅力的な、彼のしてやったりな笑顔。
「はい、わたしの勝ち」
「ク、クリフト、お前……!!」
「ここで止めにした方がいいのか、それとも続けた方がいいのか、姫様がご自分でお決めになって下さい。
どちらをお望みなのか、わたしに教えて」
人差し指で自分の耳を差し、「ほら、ここに」とアリーナの唇に顔を寄せる。
アリーナは思わず真顔になり、真剣に考え込んだ。
……止めにした方がいいのか、続けた方がいいのか、ですって?
そんなの決まってる。
でもこういう時、女の子ならもったいつけて「嫌。これ以上は駄目よ」って拒むべきなのかしら?
それとも、「もっと」って、思いきって正直になってもいいのかしら?
で、でも、もっとなんて、そんなこと言えるわけないわ……!!
ひとりで赤くなったり青くなったりしているアリーナを、クリフトは不思議そうに見ると、「黙秘は、認定ととみなしますよ」とさっさと抱き寄せた。
「ま、待って!言うわ!」
「本当に?」
「本当よ。二者択一を迫られてはっきり選べないなんて、気高きサントハイム王妃の名折れだもの。
王家の誇りにかけて、ちゃんと言うわ。今わたしが、お前に望むこと全部」
男勝りの気丈な彼女は、おかしなところでおかしな意地を張る。
アリーナはクリフトの耳に唇をあて、あのね……わたし、お前にごにょごにょ……してほしいの、と消え入りそうな声で囁いた。
クリフトの目が見開き、もともと赤かった頬にさらに、かーっと血の色が昇った。
「そ、それは、な、な、なかなかの、大胆な……。
わ、わたしもまだ、そのようなことは経験がな……」
「駄目かしら、やっぱり。
女の子なのにこんなことを言うなんて、あんまり慎みがなさすぎる?」
「……いいえ」
不安げに見上げて来るアリーナに、クリフトはくすくすと笑み崩れ、かわいくてたまらないというように力いっぱい抱きしめた。
「駄目じゃありません。
わたしも、あなたとそうしてみたい。
知らなかったこと、触れてみたいこと、ぜんぶあなたとふたりで始めたい。
あなただけとしか出来ないことを、この身体全部で知り尽くしたい」
それから後のクリフトの蒼い瞳が、もっととろんと潤んだのは、きっと飲み過ぎた葡萄のお酒のせいじゃない。
こうしている時間、彼が日頃の折り目正しい生真面目さを失ってしまうのも、熱に浮かされて囁く言葉がどんなに甘く淫靡なのかも、知っているのはわたしだけ。
神に愛されたわたしの恋人は、優しい舌触りのSweetに溶けた、ひと振りのSpiceを隠し持っている。
ふたりの間を行ったり来たりする刺激的な風味、すぐにまたもう一度欲しくなるflavor of love。
それでも、出来るなら、なるべく。
お酒はあんまり飲み過ぎないでね、クリフト。
-FIN-