めおとの決めごと



「ねえクリフト、もしも……、もしもよ。

わたしが浮気したらどうする?」




サントハイム城市教会の奥の一室の、もう古びて硬くなったソファに腰かけ、アリーナはぶすっと顔をしかめていた。

アリーナに背を向けて、書物が積み重なった木机の上をてきぱきと片付けていたクリフトは、ぎょっとして振り返った。

「……今、なにかおっしゃいましたか」

「聞こえなかったの?

わたしの言うことなんてろくに聞いていないのね、お前は」

とがった声と、眉間にいくつも寄っているかわいらしい皺。

クリフトはようやく手を動かすのを止めた。

不平そうにとがらせた唇。何度もあくびをかみ殺したらしく、はちみつ色の瞳はうっすら涙がにじんでいる。

どうやら、我がいとしき姫君は、すっかり退屈を持て余しているらしい。

「アリーナ様」

クリフトは頭を下げ、アリーナの目前に礼儀正しく膝をついた。

「その……、先程も申し上げましたが、おそらくまだ、荷物の整理には時間がかかります。

恐れ多くも、わたしの住まいをここから王城へと移させて頂くのですから、長年使ったこの部屋を、一刻も早く片付けてしまわねばなりません。

お先に、城へお戻りになられますか?わたしはせめて書物だけでも、荷台に積み終えておかなければ」

「質問の答えになっていないわ、全然」

アリーナはむっつりと言った。

「わたしが聞いたことに答えもせず、逆に質問してくるなんて、もはや会話も成り立ってやしないじゃない。

わたしたち、これから結婚すると言うのに、最初からこうじゃ前途多難ね」

「そ、そのようなことをおっしゃらずに」

「わたしは今、もしも浮気したらお前はどうするの、って聞いたのよ」

「はぁ……」

クリフトは困り果てて言った。

「それは……どうでしょうか。そのような状況を、これまで一度も想定したことがありませんので」

「どうしてよ。恋人同士だったら、少しくらいそういう心配もするでしょ」

「そうですか?」

半分上の空のクリフトが、答えながら視線のはしで棚に並んだ書物の数を数えていることに気づいて、アリーナはとうとう怒りに声を荒げた。

「なによ。クリフトの馬鹿!」

「はいっ」

クリフトは飛び上がった。

「申し訳ございません」

「さっきからわたしの話を、全然聞いていないんだから」

「そんなことはありません」

「部屋を片付けるのが、大変なのはわかったわ。

お前はわたしと結婚して王様になるために、教会を出てお城へ引っ越すのだもの。

神官を退任して王様になったら、これからは使えないものもたくさん出て来るでしょうし、もう古くなってしまったものは処分しなくちゃならないし」

「まことに、恐れ多いことです」

「それで、機嫌の悪いわたしがいると邪魔だから、お前はそうやって優しいふりをして、わたしを体よく追い払おうと言うのね」

「まさか」

クリフトは仕方なさそうに笑った。

「ただ、この様子ですとまだまだ時間がかかりそうで……姫様は、ここにいらしてもお退屈でしょう」

「べーつに」

アリーナは、ふてくされた子供のように言った。

「わたしが退屈かどうかは、わたし自身が決めることよ。お前に心配してもらわなくても結構だわ」

「わかりました」

クリフトは穏やかにほほえんで立ち上がった。

「それではお言葉に甘えて、姫様にはもう少しお待ちいただくことに致しましょう。

申し訳ありませんがわたしは、今しばらく書物の整理をさせて頂きます」

「ええ、お好きに」

アリーナは慇懃(いんぎん)に手を差し伸べて、どうぞと促す仕草をした。

クリフトは小さく会釈すると、また机のほうを向いた。

柔らかかった表情がふと引き締まり、厚い書物をひとつひとつ確かめながら、王城へ持ってゆくもの、もう処分してしまうもののふたつに手際よく分けていく。

会話がぴたりと途絶えて、アリーナはそれ以上何も言えなくなってしまい、むすっとしたままソファのひじ掛けに頬杖をついた。

(……なによ)

ちょっと、冷たくなったんじゃないの?クリフトったら。

こんなにわがままを言っても、ぜんぜん相手にしてくれない。昔はもっと、わたしのわがままにオロオロしていたのに。

……いや、そうでもないか。小さなころからクリフトはわたしの理不尽さには慣れっこになっていて、さっきみたいに無茶を言っても、つるつるした笑顔で平然と受け流していたっけ。

彼がオロオロするときは、わたしが危ない目に合うんじゃないかと思う時だ。

たとえば、腕試しの旅に出たいと言ったり、武術大会に出場すると言ったら、クリフトはいつも真っ青になって慌てふためいた。

そのくせ、わたしが戦っているとき、誰よりも昂奮して熱狂的に応援するのもクリフトだったりして、心配なのか信頼しているのか、まったく彼の考えていることはよくわからない。

「ねえ」

アリーナはもう一度言ってみた。

「もしも私が浮気したら、どうするの」

「姫様がどうしてもそうなさりたいのであれば、わたしに止める権利はありません」

クリフトは振り向かずに言った。

「貴女様のお心は、貴女様ご自身のものです」

「わたしが、ほかの人を好きになってもいいというの」

「もしも、貴女様が本当にそうしたいとお決めになられたのであれば」

「お前は、嫌じゃないの」

「わたしが嫌がるのと、貴女様がほかの男を好きになってしまうのは、まったく別のことです」

「それは、夫婦であっても?」

クリフトは背中を向けたまま頷いた。

「はい、夫婦であっても。少なくともわたし個人はそう思っています。

倫理的や法的にどうあれ、結婚という契約で人の心まで縛ることは出来ません。

現に世の中の夫婦は相手の心変わりが原因で、山ほど離縁していますよ」

「なんて罰当たりな発言なの。神の前で契りを交わしためおとは貞節を誓うべき、なんて説いている神官のくせに」

「その神官の身も、もうすぐ退きますからね」

背中越しに聞こえてくるクリフトの声は、どこか楽しそうだった。

「人の心を縛ることが出来るのは、婚姻という契約ではなく、魅力だけだということです。

個人の心のありようとは、あくまで自由であるべきなのです。たとえ結婚しようとも。

ただ、相手を真に愛する気持ちがあれば、浮気をしようとはまず思わないものです。

では、わたしからもアリーナ様に質問させて頂きますが」

「なあに」

「貴女様は、浮気なんて出来るのですか?」

クリフトは突然こちらを振り返り、目にもとまらぬ速さでアリーナの腰をぐいっと引き寄せた。

「きゃ……」

「あなたに、わたし以外の男を好きになることなど出来るのですか」

「ちょっ……、ク、クリフ……」

肘がぶつかってがたん、と机が音を立て、幾冊かの書物が床にばらばら落ちる。

クリフトの尖った顎先が前髪に押しつけられて、熱い吐息がアリーナの額にかかった。

「もしもあなたが、他の誰かに目移りしたとしても、それは取るに足らない二番手、三番手の男でしかないというのに。

わたしほど貴女を恋い慕う者は、この世界中のどこを探してもいないのだから」

おわかりですか?アリーナ様。

あなたをこの世でいちばん愛しているのは、わたし。

どうか、そんなつまらぬ質問など思いつかなくなるほど、もっとわたしにそのお心を傾けてください。

「姫様、……わたしだけを見ていて」


わたしには、貴女様だけ


貴女も、そうであって欲しいのです


あるかなきかの声音でささやいて、甘い唇が覆いかぶさる。

クリフトのまとう萌黄色の法衣から、白檀のかぐわしい香りが漂った。

長すぎるほど時が経ち、ようやく唇が名残惜しげに離れた瞬間、アリーナは身体中の力が抜けて、思わずへたっとその場に座り込んだ。

「大丈夫ですか」

「う、……うん」

優しく手を差し伸べるクリフトの瞳はもう冷静さを取り戻していて、陽だまりのようなほほえみをたたえている。

「本当は、なにもかも全部放り出して、このままもっと続けたいのですが」

「……馬鹿」

「ひとつ、名案を思いつきました。ここの片付けを早く終わらせる方法」

「なあに?」

「貴女様とわたし、ふたりで分担致しましょう。そうすれば半分の時間で終わり、そのあと、さっきの続きをすることが出来ます。

恐れながら、手伝って頂けませんか?

アリーナ様。わたしの……わたしの大切な、いとしい奥さん」

奥さん、と口にしたとたん、クリフトの目元がさっと赤くなり、アリーナの瞳が輝いた。

「もちろんだわ!どうしてもっと早くそう言ってくれなかったの?さっきからずっと、その言葉を待っていたのよ。

確かに夫婦であっても、個人の心の自由は尊重されるべきだわ。

でも、お互いを大事に想い合って、相手の嫌がることはしないこと。相手が困っていたら助け、支えること。

そして、いつだってふたりで協力しあうこと。手を取り合うことで、夫婦の自由はさらに広がっていくのよ。

わたし、お前を助けたい。これからも永遠に」

「身に余るお言葉、わたしはほんとうに……世界一の幸せ者です」

クリフトはほんの少し瞳を潤ませてほほえんだ。

「では、わたしと姫様で協力し合い、今からここを迅速に片付けてしまいましょう。

そのあと、一刻も早く王城へ戻り、温かいベッドへふたりで不埒にもぐり込みましょう。

着ているものを全部脱いで、朝まで誰にも邪魔されずに、好きなだけ愛を確かめ合って」

「それは……悪くないわ」

アリーナはぽっとほほを染めると、床に落ちた本を急いで拾い上げた。

「待ちきれない。早く、お城へ戻りたいな」

彼女の桜色の唇からこぼれた子供っぽいつぶやきに、きららかな喜びがあふれる。

クリフトはくすくす笑いながら、「御意」と頷いて、未来の妻の手から優しく本を受け取った。



ーーーFINーーー
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