ここに、幸せ


「わたし、幸せだわ」

傍らで淹れたての熱いハーブティーを飲んでいたアリーナが、ため息をつきながら不意に言ったので、クリフトは不思議そうにまばたきした。

「どうしました。突然」

「べつになにもないけど、ただそう思ったの」

アリーナは長い睫毛を伏せ、幸福そうにもう一度吐息をついた。

「わたし、幸せよ。クリフト」

クリフトは頷き、辺りを見回した。琥珀色の温かい飲み物からは香り高い湯気がくゆり、テーブルには淡いオレンジ色のバラの花が生けられ、部屋のすみずみまでくつろいだ空気で満たされている。

壁に貼られたタペストリの中でほほえむ彼女の亡き母親は、今日も変わらず美しい。一度も会ったことのない高貴な王妃に向かって娘は毎日語りかけ続け、もう何年が過ぎただろうか。うまくいかないくやし涙も、誇らしげな勝利の報告も、戸惑いがちな恋の相談も、優しい母はいつも黙って聞いてくれた。

「わたしはすべてを手に入れているなぁって、そう思うの」

「だとすれば、それは貴方様の心がそうさせているのですよ」

クリフトはささやいた。

「いつか幸せになりたい、と漠然と望んでいる者のもとには、神は幸せを与えません。幸せとは運が良ければ手に入るおぼろげな希望ではなく、今ここにあると感じられる者のもとに寄り添っている現実の輝きなのです。

いついかなる時も、今この時の幸せを心からいつくしむことの出来るアリーナ様は、水に落ちた一滴のしずくの波紋が豊かに広がっていくように、未来へ向けてさらなる幸福を受けることが出来るでしょう」

アリーナは目を見開き、弾んだ声で「ほら、わたし、やっぱり幸せだわ」と笑うと、クリフトに甘えるように抱きついた。

「こうしてわたしが突拍子もないことを話しても、お前は驚きもせず真摯に答えてくれる。そんな人がいつもわたしのそばにいる。

わたしにクリフトを与えて下さった神様には、どんなに感謝してもしきれない。当たり前の毎日は喜びで満ちているの。平凡で、変わり映えしないように思える日々には、じつは数えきれないほどの幸せがちりばめられているわ。

だからわたし、これからも口にする。同じような毎日をすごしながら、しみじみと噛みしめるわ。ああ、幸せだなぁって。お前と一緒に生きてるって、最高だって」

クリフトは不意に首を傾けて、アリーナに深々と唇を重ねた。前触れなく訪れたキスに、アリーナが驚いたように柔らかくもがく。

言葉のふつりと途切れた時間がつかの間過ぎたあと、ようやくクリフトが唇を離して息をつくと、頬を真っ赤に染めたアリーナの顔があった。

「わ、わたしは真面目に話していたのよ。それなのに…」

「どうかわたしにも言わせて下さい」

クリフトの伏せた瞳をふちどるまつ毛がわなないた。

「……クリフト、どうしたの。泣いてるの?」

「わたしこそ、幸せです」

クリフトは瞳のはしを指先でぬぐいながらほほえんだ。

「わたしとあなたが今共にある奇跡を思うだけで、子供のようにわっと泣きだしたくなるほど。あなたのかたわらで目に映るすべてがあまりにいとおしすぎて、心が震えるほど。

わたしは今、とても幸せです。神ではない。貴女様がそうしてくださったのですよ。アリーナ様」

アリーナはそっと背伸びして、クリフトの首に両腕を回した。

萌黄色の法衣からふんわり漂う、教会の香油の甘い白檀の香り。わたしの好きな人はいつもいい匂い。

香りは幸せに似ている。形はないけれど静かに寄り添ってくれていて、だけど長いこと嗅いでいるとだんだん慣れてわからなくなるから、時々こうして言葉にして確かめるのがいい。

いつも感じていよう。この気持ちをずっと忘れないでいよう。

わたしたちが幸せだと思い続ける限り、それは絶えまない太陽の光のようにいつまでも燦々と降りそそぐ。

わたしと、クリフトのもとへ。

アリーナは背の高い恋人の耳元で、決して消えない刻印をきざむようにもう一度ささやいた。

「わたし、幸せよ。クリフト」



ーFINー

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