クッキー
チョコレートチップ、ティーリーフ、パンプキン、キャロット。
どれもすごくおいしいわと、あの方はいつもにこにこほおばっていたなと思い出す。
生粋の武術家の彼女は健康な身体にこそ強いたましいが宿るのだと、食べ物をきちんと摂ることをなにより大切にしていた。
旅のあいだも男顔負けの旺盛な食欲を発揮していたが、サントハイムに戻って再び王女として過ごすようになってからは、以前よりよく甘いものを口にするようになったという。
その理由は……わかる。要するに、そういうことだ。
欲求不満と書いてストレス。
石造りのお城に閉じ込められるたいくつな暮らしは嫌、裾の長いひらひらしたドレスを着せられるのは嫌。
それに、クリフトに自由に会えないのがいちばん嫌。
……なんて、な。
教会の台所の窓辺に立ち、ため息をつく。
最後のはもちろん、わたしの勝手な蛇足。もしもそうだったらいいのにという希望的観測。
「……会いたいなぁ」
ぽろぽろこぼれるひとりごとも、われながら情けないくらい力ない。
(アリーナ様)
会いたい。
ひと目でいいから。
長かった旅のさなか、当たり前のように真近で貴女を見つめていられた喜びに、図々しくも溺れきってしまっていたのだろう。
直系の王女として公務に奔走する彼女とたかが二、三月会えないだけで、こんなにもダメージを受けてしまうなんて。
(お元気でいるだろうか。……いや、きっと姫様のこと、どんな環境でもお体は誰より元気でいらっしゃるだろう。
わたしが心配なのは、お心だ。礼儀作法と帝王学の習得、厳しい王家のしきたりに縛られて、自由を求める姫様のお心はくたくたに疲れているはず)
お目付役のブライ様と派手に喧嘩なさったり、昔のように壁を蹴破って脱走してやろうと試みたりなさってはいないだろうか。
でも、不届きなわたしは心配に駆られながらも、ついこう考えてしまう。
わたしたちを冷たく理不尽に隔てる壁など、何百回でも粉々に蹴破られてしまえばいい。
砕かれた石壁が広げるもうひとつの世界の扉から、彼女がまぶしい笑顔で飛び出して、鳥のように翼を広げてわたしのもとにやって来てくれればいい。
心配するふりをして、最後はいつも恋心とすり替えてしまう。ああ、どうしてこんなに愚かなのだろう。
本当に彼女を心から愛しているのなら、王女として身分に見あった幸せを掴み、わたしのことなど忘れて幸福に生きていかれることを願うべきだろうに。
わたしはもう一度ため息をつき、窓の外の夜空を見つめた。
閉め切った窓の向こうに、宝石をばらまいたようなきらめく星々の海。
どんな気持ちで見上げても、母なる銀河はいつも変わらず美しく、優しい。
窓から離れると、壁に吊るしてある厚手の木綿の手袋をはめ、床に屈み込んで石窯造りの薪のオーブンの扉を開けた。
礼拝者や信者達何百人分もの炊き出しを作ることもあるこの教会の台所は、古びてはいるが広い。わたしを始め几帳面な修道士たちの手によって、掃除も隅々までよくゆき届いている。
使い込まれたオーブンの扉が開くと、小麦粉と砂糖のなんとも言えないこうばしい香りが辺り一面に立ち込めた。天板に並べた手作りのクッキーが、焼き上がったのだ。
料理しか取り柄のないわたしが、子供の頃からよく焼いたさまざまなフレーバーのクッキー。旅のあいだも宿屋の厨房を借りては作った。彼女が違う味のクッキーを両手に持ち、うれしそうに交互に頬張るのを見るのが大好きだった。
今はもう、あの頃のように食べてもらえるあてなどない。だから今夜このクッキーを焼いた理由は、ただのわたしの独りよがりな感傷だ。
彼女の輝くような笑顔を、今もそこにいてくれるかのように恋しく思い出すため。
もう決して戻って来ないあの日々に、温かい毛布からいつまでも離れられない甘えた子供のように、必死でしがみつくため。
焼きたてのまだ熱いクッキーを、やけどしないように慎重にかじった。うん、よく出来ている、と頷いて自画自賛。
冷めたら絹布に包んで、明日の朝サランの修道院にでも差し入れに持って行こうと考えたその時、
「ずるいわ、クリフト。自分だけ」
背後で声が鳴った。
同時に、心臓も。
振り向くのがとても怖かったけれど、振り向かずにはいられなかった。幻聴ではないことはとっくにわかっていたし、なによりこちらへ近づいてくる足音が、こつこつ、すたすた、ばたばたと徐々に速くなっていったから。
ばたばた、は、最後にとすん、という柔らかな音で途絶えた。頬と衣服がぶつかる音。彼女が勢いよくわたしの胸に飛び込む音。伝わるすこやかなぬくもり、ほら、やっぱり体はお元気だ。
なにがあってもへこたれない、強靭で柔軟なサントハイムのおてんば姫の生命力。
「……どうして」
「この香りに、吸い寄せられて来ちゃった」
顔をわたしの胸に押しつけた彼女が、くぐもった声で言った。
「甘くって、空気を吸うだけでほっぺが落ちてしまいそうな、クリフトの手作りクッキーの香り。
これを食べると、お城で出されるどんな高級なお菓子も味気なく感じるの。クリフトのクッキーじゃなくちゃいやだってあんまりわたしが駄々をこねるものだから、料理人たちが同じ材料でクッキーを作ってごまかそうとしたことがあるくらい。
でも、駄目だった。ひとくち食べただけでわかるのよ。お前の作ったクッキーにはわたしだけが感じることの出来る、特別な秘密の隠し味が入ってるのね。
それは、きっと」
それは、きっと?
教えてほしい、全てを超える魔法の言葉。
それはきっと、なんなのですか、アリーナ様?
「……どれほど」
貴女にお会いしたかったか。
こみ上げる想いを口にするより先に、彼女をきつく抱きしめていた。抑えることなんて出来なかった。感情が身体を勝手に突き動かしてしまうことがある。誰だって覚えがあるだろう。この世に生まれて、こんなにも誰かを好きになったことがある人なら。
「今夜は貴族たちとの舞踏会が開かれているの。よく知りもしない人たちと手を取り合って踊らなきゃならない、世界でいちばん退屈な時間。
葡萄酒を飲み過ぎて気分が悪くなったって部屋に戻って、そのすきにお城を抜け出して来ちゃった」
「アリーナ様のお部屋はお二階でしょう。舞踏会の折の警備は厳重ですし、一体どうやって抜け出したと……」
わたしははっとした。
「まさか」
「そうよ、もちろん。そのまさか。
久しぶりだったから手加減が出来なくて、壁どころか天窓まで粉々になっちゃった。今頃、大騒ぎになってるでしょうね」
右足のつま先でとんとん、と床を叩き、愛らしいおもてがしてやったりといたずらっぽく笑う。
鳶色の瞳が大きくしばたたいた瞬間、彼女の背中に見えない翼がはためいた。
砕かれた石壁の向こうに広がる、もうひとつの世界への扉。わたしがじめじめと悩んでいる間に、こんなにもたやすくこちら側へやって来る。彼女は誰にも止めることの出来ない鳥だ。冷たく理不尽な隔たりも、がんじがらめの帝王学も、なにひとつ彼女を縛ることなどない。
不自由の中にあって、いつも自由な魂。そんな貴女だからこそわたしは、こんなにも引かれて、惹かれて。
「アリーナ様、わたしは」
「しーっ」
彼女は小指を立てて唇にあてた。
「難しい話はあとよ。早くしないと追手が来ちゃう。わたしが脱走していちばんにどこに行くかなんて、みんなとっくに承知なんだもの。
だから、用件だけ伝えるわね」
「用件?」
「もう少しだけ待っていて、クリフト」
彼女はぐんと背伸びしてわたしのほおにくちづけた。
「わたし、王家のしきたりなんて変えてみせる。古い慣習もつまらない身分の差も、わたしとお前が一緒にいられないなんの理由にもならないわ。
普通はこういうセリフって、男の人から言うのかもしれないけど……、わたしたち、どっちみち少しも普通じゃないからいいでしょ?
わたし、いつかお前を迎えに行く、クリフト。
あともう少しあの石壁の中で戦って、お父様もブライも大臣も、堅物頭のお城の人間たちみんなが観念したら、その時必ずお前をわたしのものにするわ。
わたし、絶対に負けない。サントハイムのおてんば姫は欲しいものは必ず手に入れる主義なの。
たとえどんな困難が待っていたとしても、諦めない。だから、心しておいて」
じゃあ帰るわね……と笑って、天板の上に並んだクッキーを手に取ると、お腹をすかせた幼な子のように彼女はふたつの味をいっぺんに頬ばった。
「おいしい。ずっとこれが食べたかったの。旅をしてるあいだ、世界中のどこの国にいてもお前はいつもこれを焼いてくれた。
どんなに苦しい時もつらい時も笑顔で、姫様、さあクッキーが焼けましたよ。肩の力を抜いてひとやすみしましょう、って。
わたしにはこのクッキーが必要なの。頑張るだけでひとやすみしない人生なんて、いくらわたしだって疲れちゃうもの。
だから、これからも作ってくれるでしょ?クリフト」
わたしはものも言えず、頷いた。不覚にも涙ぐみそうになったと言ったら、あまりに男らしくないだろうか。
「じゃあ、またね」
彼女がくるりと背中を向けて、去っていく。来た時と同様、鳥のように軽やかに、自由に。なによりも不自由な彼女の場所へ戻るために。
無力なわたしはただ立ちつくす。わたしに出来ることはなにもない。
ここにいて、彼女を待つだけ。なにも出来ない自分の前に差しだされた不確かな誓いを、信じることだけ。祈りのように。願いのように。たとえもしもそれが叶わずとも、こう思える自分でいられるように。彼女のそばにいつも幸福が寄り添っていますようにと。
そしてわたしは今日もまた、使い込まれたオーブンの扉を開く。
どれもすごくおいしいわと、あの方はいつもにこにこ頬張っていたなと思い出す。
いつかの夜彼女とかわした夢のような約束が、うつつになることを祈りながら、願いながら。こうばしい香り。ふたりの過去と未来を繋ぐフレーバー。
チョコレートチップ、ティーリーフ、パンプキン、キャロット。
ーFINー