瞬間
見上げた瞬間、すぐに見下ろされるのが好き。
扉の鍵を締め、ようやくふたりきりになれるやいなや、夢中で我れを忘れた時間が風が吹き抜けるように過ぎる。
我れを忘れた分だけ、その後訪れる倦怠は甘く濃く、しばらくお互い言葉も発さず、黙って寄り添い横たわる。
この瞬間。
腕の付け根に頭をもたせかけ、頬にあたる鎖骨の硬さに目眩を覚えながら、こっそり彼の顔を見上げる、この瞬間。
彼は必ず視線に気付いて、わたしをそっと見下ろす。
どうしたのですか?というように見開かれるまなざしは、ほんのすこし眠そうで優しい。
このまなざしもこの腕も、彼の全部が自分のものなのだと思うと、わたしは不意に叫び出したくなるほどの幸福感に襲われ、そうしない代わりにいとしい名前を呼ぶ。
「クリフト」
「はい」
「クリフト」
「はい」
「クリフト」
「はい」
辛抱強く答えてくれる彼も、さすがに四回目あたりから苦笑い。
返事をするのを止めて身体をわたしのほうへ向け、小さな赤子をあやすように頭ごとぎゅっと抱きしめる。
「ここに、ちゃんといるから。
アリーナ様」
柔らかく喉に絡んだ、かすれ声。
日頃、姫様、お慕いしております、と堅苦しく繰り返すばかりの声音が、敬語という垣根を飛び越える唯一の時。
「「様」をつけるの、やめて。
わたしのことが好きなら、名前をちゃんと呼び捨てにして」
拗ねたように口を尖らせると、彼は眉を下げ、そればかりは困るという顔をした。
たとえ恋人として心を通わせる栄を賜ろうとも、貴女様は主家の姫君。ゆめゆめ無礼は許されません、というのが持論なのだ。
「ね、呼んで。お願いよ。
アリーナ、愛してるって。耳元で、わたしだけに聞こえるように」
クリフトの顔が赤くなった。
「……ですが」
「いいから、早く!」
赤くなった顔が困ったように天井を向き、しばらく視線を右往左往させていたが、やがて意を決したように振り向いて、わたしの耳に唇を寄せる。
「……ァ………リー、ナ」
「なあに」
「愛しています」
「もう!います、じゃなくて、愛してる、でしょ」
「アリーナ様、愛してる」
「今度は様がついちゃってるじゃない。どうしてちゃんと言えないのよ!」
「はあ」
クリフトはすまなそうに首を傾けた。
「どうも……上手くいきません。慣れていないからかな」
「慣れるも何も、ただひとこと言うだけじゃない。アリーナ、愛してるって。簡単なことだわ」
「簡単じゃないのですよ」
クリフトは蒼い目をつと宙にやって呟いた。
「簡単なことじゃないのです。わたしにはずっと、簡単じゃなかった。
一日百万回、祈るほどに心で呟いた想いを、たった一度の言葉に変えるのがどれほど難しかったことか。
たった一度の言葉に変えるのに、どれほど長い時間がかかったことか」
そう言ってわたしを見下ろし、微笑んで額に口づける。
「だから、言葉がうまく出てこないのはどうかお許しください」
「いいわよ。じゃあその代わり……」
言葉で足りないぶん、もっとべつな方法で、いっぱいいっぱい愛してるって伝えてね。
わたし、一晩くらい全然寝なくっても平気なの。
クリフトだって、そうでしょ?
そう言って身を乗り出し、音を立てて頬にキスすると、彼の蒼い目が驚きで丸くなった。
その瞬間。
いつもそっとわたしを見降ろす彼が、耳まで真っ赤にして照れて反対側を向く、その瞬間。
見上げた瞬間、すぐにあっちを向いてしまうのが好き。
どんな瞬間も見逃さず、彼の頬も手も足も、硬い鎖骨を覆うなめらかな肌理すらこの目に焼き付けて、
わたしはもう一度やって来る我れを忘れる時間への甘い期待に、ほんのすこし胸を疼かせる。
-FIN-