星の夜にⅢ
~星の夜にⅢ
月もいかが?~
「今夜は星が綺麗ね、クリフト」
アリーナは夜空を見上げて呟いた。
傍らでクリフトは長身を真っ直ぐに伸ばし、ほとんど無垢と言ってもいいような真摯な表情で、満天の星空を見つめ続けている。
どれほど待っていても、クリフトの横顔からはふたたび彼女を抱き寄せ、唇を寄せようという甘い気配は感じられない。
アリーナが何気なく発した、夜空はなぜ暗いのか、という疑問があれよあれよと尾を広げ、いつのまにかこの宇宙の存在意義にまで発展した天文学講義に弁舌を振るったせいで、
彼の夢見る心はもう恋ではなく、天空のかなた、決して手の届かない神秘の銀河へと翼を生やして飛び立ってしまっているのだ。
(ここで無理に話しかけても、どうせまたややこしいお星さまについてのどうのこうのが始まるんでしょうね)
アリーナは肩をすくめた。
(一度なにかに夢中になるともう、わたしのことなんかそっちのけなんだから。せっかくふたりきりなのに、つまんない)
でも、決して嫌な気分というわけではない。
大好きな人がなにかに子供のように熱中していて、そのせいですこしだけ自分がおざなりにされる。
普段の彼の細やかな愛情深さとのギャップが大きければ大きいほど、その無関心さがなぜか魅力的に思えてしまうのだから、おかしなものだ。
恋人が隣にいることすら忘れてしまうほど、頭上の雄大で壮大で、不思議過ぎて狂気すらはらんでいるような青白い宇宙に夢中になる彼は、その心も夜空と同じほど澄んでいるように思える。
もう大人なのに、星々に憧れる少年の心を持つクリフト。
彼が見上げる限り、幾億のまばゆい銀河の宝石はいつもそこにあり、そのきらめきを彼のもとへと等しく注ぎ続ける。
(お星様についてこんなに詳しいんだったら、お月さまはどうなのかしら?)
アリーナはふと、悪戯心を働かせた。
今夜は朔月……、新月だ。
月は那由他に広がる舞台に登場してはおらず、夜空の主役を満点の星たちに明け渡して、深い闇の中空の寝床にその姿をじっとひそめている。
(異国の神教では、月そのものを女神と見立てて崇めることもあるけれど、サントハイムにその風習はないわ。
お星さまはともかく、さすがのクリフトも月のことにまでは詳しくないはずよ)
大昔の伝説の神獣スフィンクスのように、到底答えられそうもない厄介な難問を浴びせかけ、クリフトがうっと詰まるところが見てみたい。
そこで、もう一度言うのだ。困って絶句した彼の腕をそっと取り、さっき口にしかけて止めた言葉を、今度こそちゃんと声に出して。
ねえ、クリフト。お前が今知るべきなのは宇宙なんかじゃない。
そんな掴みどころのない霞みのような答えを探すより、もっと大切にしなくちゃいけないものが、ここにあるんじゃないのかしら?って。
「クリフト」
アリーナは息を吸い込み、満を持して傍らの恋人の名を呼んだ。
クリフトは空を見上げたまま、「はい」と心ここにあらずな調子で返事した。
「もしも知ってたらでいいんだけど、教えてくれる?
お月さまって、見る時によって小さかったり大きかったり、金色だったり銀だったり、時にはとても赤かったりするわよね。あれはどうして」
「この星を周囲を巡る月の軌道とは、じつは完全な円ではありません。楕円形に歪んでいます。月の大きさや明るさが見るたび違うのは、そのためです。
月食の折など、月が赤黒い不気味な色をすることもありますが、それはこの星の大気を通り抜けた太陽光線が屈折してこの星の影に入り込み、夕焼けのように月の表面を照らし出すため。
赤銅色の月を天変地異のまえぶれ、凶兆だと恐れる輩もいますが、なんのことはありません。ごく普通の自然現象ですよ」
「……あ、そう」
(し、失敗だわ)
アリーナはうつむいてこっそり歯噛みした。
なにが、なんのことはありません、ごく普通の自然現象です、よ。赤い月のどこがごく普通なのよ。
ぴかぴか綺麗なお月さまがある晩突然赤くなれば、驚くにきまってるじゃないの。それに、お前が自分でその事実を発見したわけじゃあるまいし、さも当たり前のことみたいに知ったかぶっちゃって。頭のいい人って、これだから嫌い!
(次こそは、お前の口をしどろもどろに詰まらせてやるんだから)
「じゃあ……そうね。これなら、さすがのクリフトもわかるはずがないわよね。
たとえば、これからやって来る未来のある日、ある晩の月は一体どんな形をしているのか、なんて」
(うん!これ、いい質問だわ。スフィンクスもびっくりよ。
そんなやって来てもいない未来のある日のお月さまの形なんて、誰にもわかるわけがないもの)
するとクリフトはようやく夜空から目を離し、アリーナを真顔で見つめた。
「アリーナ様。なぜ、そのようなご質問をなさるのです?
今度は星ではなく、月についてご興味をお持ちになられたのですか」
「べ、べつに、そういうわけじゃないけど」
アリーナはえへへと笑ってごまかした。
「ただなんとなく、何年後かのあの日はこんな形の月だから、また一緒に見に来ましょうね、なんて、お前と未来の約束が出来たら素敵だなと思ったの」
まあ、それは今とっさに思いついたんだけど……とどぎまぎして赤くなるのを、クリフトは違う意味に受け取ったらしく、「そうですね」と蒼い目を和ませた。
だが次に彼がするすると続けた言葉に、アリーナは呆気にとられて口を開けた。
「未来のある日の月の形についてですが、わかりますよ」
「え?」
クリフトは笑顔でもう一度「わかります」と言った。
「月は、29.5日かかって新月から次の新月までの満ち欠けを繰り返します。
新月から経過した日数を月齢、と呼びますが、一日程度の精度でおよその月齢を知るのであれば、簡単な計算式があります。
古代東方の天文学者が発表した数式ですが、非常に便利で簡潔なのですよ」
クリフトの蒼い瞳が先ほどと同じくきらりと光を増し、頬にやんわり赤味がさしたので、アリーナははっとして、
「ま、待ってクリフト、あの、わたし数式とかそういうのはべつに……」
だがまたしても遅かった。
「では、記号を使って説明させて頂きましょう」
おそらく黒板と白墨があれば、そこに恐るべき速度で書き記していたのは間違いないだろう勢いで、クリフトは再び高らかに語り始めてしまった。
「もしも古代西暦A年B月C日の月の形、つまり月齢を知りたいと思った場合、まずは仮定数D=A-1903を計算し、Dの値を求めます。
月齢を求める数式は、D×11+(D÷20)+B+C。
このうち(D÷20)は整数部分のみとし、数式の答えが30以上となったら、今度は以下になるまで30を引いて行きます。ただし1月と2月のみは前年の13月、14月として計算してくださいね。
ではわかりやすいように、試しに求めてみることとしましょうか。
たとえば、西暦2012年4月7日の月の大きさを知りたい場合、D=2012-1903=109。
これを先ほどの数式にあてはめると、月齢は109×11+(109÷20)+4+7=1215。
この答え1215が、30以下になるまで30をひたすら引いて行きます。すると導きだされる数は、30を40回引いて1215-1200=15。
つまり、西暦2012年4月7日の月齢は、15。
十五夜。その日の晩に昇る月は、美しい満月だとわかるのですよ」
「まあ、すごく素敵だわ。とっても丁寧な答えをありがとう。クリフト」
(わたしの馬鹿。心から馬鹿)
アリーナはにこにこと満面の笑みを顔に貼りつかせながら、内心自分を深く呪った。
ええ、クリフトはなんにも悪くない。だって、質問したのはわたしだもの。
彼の大切にする学問という個人的な楽しみに、つまらない茶々を入れて冷やかそうとしたわたしがいけなかった。
つまり、人にはそれぞれ得手不得手というものがあり、武術や日常生活の我儘でならまだしも、勉学の分野において彼をやりこめようとするなんて、わたしには土台無理だということだ。
「と、でもそんな話はもう止めにしましょう」
クリフトはアリーナの方へ向き直り、そっと両手を取った。
「目先の夜空につい見とれ、いとしい貴女様との大切な時間を無為に過ごしてしまって申し訳ありません。
確かに天文学へのあくなき探究心は絶えませんが、それよりもわたしには今、もっと大切にしなくてはいけないものがありますから」
「え……」
「アリーナ様、こんな歌をがあるのをご存知ですか。月を使った言葉遊び」
クリフトはアリーナを背中からぎゅっと抱き寄せ、鈴を鳴らすように軽やかに諳んじた。
「良き月夜 照っては照って 良き月夜」
「よき、つきよ?回文?」
アリーナがきょとんとして繰り返すと、クリフトはほほえんで頷いた。
「月はこの星の周囲を巡ります。ですが自転周期と公転周期が同じため、わたしたちの住むこのサントハイムでも、そのちょうど裏側にある異国でも、まったく同じ模様を見せる。
こちら側から見ても、反対側から見ても、月はいつも同じ月。
どこにいてもこの星だけを見つめ、この星のことだけを永遠に愛しているのです」
クリフトはアリーナの額にキスをし、「わたしは月。貴女は、この美しい星。アリーナ様」と、まるで月のしずくがこぼれ落ちるような典雅な声音で囁いた。
「ね、ほかにはないの?クリフト」
たった一度のおでこへのキスですっかり嬉しくなって、アリーナはクリフトの腕の中ではしゃいだ声をあげた。
「とっても楽しいわ。あちら側から読んでもこちら側から読んでも同じ、月の言葉遊び。もっと教えて」
「まだまだありますよ、たくさん」
クリフトは片目をつぶった。
「白萩を 月に見に来つ お気晴らし」
「お気晴らし!すごく面白い言い回しね」
「池に来つ した水満たし 月に景」
「した水って、なあに?月を見る人が池で水を汲んでいるのかしら」
「照りて来つ 西に真西に 月照りて」
「西に真西に……、それはきっとこの西の王国サントハイムを照らす、大きくて丸い黄金色の満月のことね。
わたし、次に満月の出る日がすごく楽しみになって来たわ」
「なんなら、また計算式で求めてみましょうか」
「え」
「なんです。その嫌な顔」
「い、嫌な顔なんてしてないわ。それより見て、クリフト!今夜はほんとうに」
星が綺麗ね。
今度はお星様と一緒に、お月さまも見えたらいいね。
またふたりで、一緒にこの夜空を見に来ましょうね。きっとよ、クリフト。
-FIN-