ごめんね、クリフト



気づかなかった、なんて言葉はどんな言い訳よりたちが悪い。

鈍感は時に重い罪だ。

でも、あの時の自分はなにをやっていたのか、どこがいけなかったのか、と振り返るにつけ、浮かぶのはどうしても同じ言葉ばかり。

気づかなかった。

ごめんね、クリフト。


わたしは本当に、気づかなかったんだ。








~ごめんね、クリフト~









「やっとミントスに到着しましたね」

思えばこの時から、クリフトは少しおかしかった。

……なんて、都合のいいこじつけにすぎないのかもしれない。後からならなんだって言える。弁解もごまかしも、理由づけも、とりなしも。

祖国サントハイムを出立したひところより、歩調をぐっと遅め、クリフトは旅の行軍のしんがりを務めていた。

倹約を是とする彼が妙に頻繁に水を飲み、厠に行くと言っては長いこと帰って来なかったのだって、既に異常をきたしていた体調の悪さを隠すためだったのだし、

強行軍で疲れているはずなのに、「よい天気ですね。この空を見るだけでやる気が湧いてきます」とか、「絶好の旅日和。どこまでだってひとっとびで行けそうです」とか、やたら前向きな言葉ばかり口にしていたのも、今となっては彼の身体が無意識に発する、遠まわしな危険信号だったのだ。

ミントスでの逗留三日目、まるでねじの切れたぜんまい人形のように、クリフトはばたりと倒れた。

三日目、というのはいかにも彼らしい。一日目、初めての街に到着したばかりの彼は全身に緊張の糸を張り巡らせ、我があるじに危害をくわえんとする不届き者はあらんやと、周囲に抜け目ない警戒の目を光らせる。

二日目、厳重な警護にますます気は抜けない。といっても今度は街そのものではなく、あるじであるわたしが彼の警戒の対象だ。

一日経って落ちついた頃、わたしが好奇心に火をつけ、すきあらば宿を抜け出して街を徘徊しようと企むのを、全力で阻止しようと勇んでいるのだ。

だから三日目、この街はどうやら安全、アリーナ様も余計なお転婆を起こす気はなさそうだ……と心を緩ませた瞬間、彼はひた隠しにしていた病魔の猛攻に負け、とうとう倒れてしまった。

旅の路銀をはたいて慌てて呼んだ町医者が、「これは、わたしごときでは手に負えません。特効薬でもない限り、治ることはないであろう病です」とつらそうに宣言して部屋を出て行くやいなや、寝台に横たわっていたクリフトはぱちりと目を開けた。

「姫様」

自分の心配をすればいいのに、こんな時も彼が第一に案ずるのはわたし。

「姫様」

なんとか起きようとするが、病んだ身体は全く言うことを効かないらしく、首を動かすどころか、枕から頭を持ち上げることすら出来ない。

よほど苦しいのか、絶えず洩らす荒い息にはひゅうひゅうと風鳴りのような音が混じり、唇は高熱のために細かく震えている。

そのくせ、顔をひきつらせて無理に笑う。馬鹿なクリフト。

ねえ、わかってる?お前は病気なの。こんなに苦しい時、人は誰も笑わないのよ。

「大丈夫ですよ、姫様」

クリフトは笑う。

額に汗を浮かべ、全身の痛みにはあ、はあと息を切らしながら、うつろな蒼い目にわたしは映っているのか、焦点の合わない瞳を宙に泳がせて笑う。

「ご心配なさらないで下さい。わたしなら、平気です」

クリフトは笑う。

「姫様を差し置いて昼間から横になるなど、不敬の至りですね。どうぞお許しください。

明日の朝、すっかり治った暁にはなんでも言うことを聞きます」

わたしの不安を払拭しようとするように、わざと気軽な調子で言って、クリフトは無理矢理笑う。でもその作戦はあまり成功していない。

「このような病、すぐに治りますから大丈夫です。姫様、ブライ様。ご迷惑をお掛けして申しわけありません。

ブライ様……、姫様?

あれ、おふたりとも……、どちらですか……?」

目の前にいるわたしとブライ、ふたりの顔が同時にこわばった。

クリフトの瞳はなにも映さなくなり、まぶたが急速に力を失って閉じられた。

「クリフトッ……!」

寝台に飛びつこうとするわたしを、ブライが身体を入れて遮った。

「触れてはならぬ。熱が上がって、眠りについただけじゃ。意識が混濁しておる。

医者は薬草も効かぬと言っておった。儂らに出来ることはありませぬぞ」

「なによ!病を治す魔法くらい唱えられないの?日頃からサントハイムの氷竜の杖だとか世界一の魔法使いだとか、散々いばってるくせに!」

わたしは涙声で叫んで、はっとなった。ブライが苦渋の表情でわたしを見つめている。

「ごめんなさい、爺……!」

「否、姫のおっしゃる通りじゃ。これまでどれほどクリフトひとりに頼りきって来たか、皮肉にもこやつが倒れることで、骨身にしみて解ったわ。

儂と姫のふたりだけでは、消えたサントハイムの民を取り戻すどころか、指先の切り傷ひとつ満足に治すことも出来ぬ」

ブライは背を向け、扉に手をかけた。

「ブライ?どこへ行くの。クリフトについていてあげないの」

「儂には、病を治す白魔法は使えぬ。ゆえに儂に出来ることを探しましょうぞ。

ここは世界一の商人が住むという街ミントス。探せば不治の病を治す特効薬も、あるいは」

ブライが出て行き、狭い部屋は水のような沈黙で浸された。

クリフトは寝台の上で、石像のように動かない。忠義と礼節を重んじる彼のこと、クリフトが主人のわたしより先に眠るなんて、もしかしたらこれが初めてかもしれない。

「ごめんね、クリフト」

わたしは涙をぐいと腕で拭うと、その場に膝まづいてクリフトの頬に手を添えた。

「ずっと、苦しいのをがまんしていたんだね。気づいてあげられなくて、ごめんね」

言ったとたん、涙がどっとあふれ出して、わたしはしゃくりあげながら謝り続けた。

「もっと早く気づいていれば、こんな事にはならなかったのかもしれないのに。

ごめんね。ごめんね……」


ごめんね、クリフト。


わたし、お前が元気でそばにいてくれるのを、当たり前のことだと思っていたんだ。


いつも、どんな時も笑ってわたしの背中を追いかけて来てくれるのを、それが当然だと思ってた。


だからわからなかった。


お前がわたしと共にいてくれるのが、どんなに貴くて幸せなことだったのか。




「……ひ、め……」

その時、目を閉じているクリフトの唇がかすかにわなないた。

熱のせいで乾ききり、言葉を紡ぐのもままならない唇から、枯れ葉を踏むようなひび割れてかすれた囁きがわたしの耳に届いた。




ひめ さま


だいじょうぶ です




唇が、ぎしぎしときしみながら持ち上げられようとしている。

彼は昏睡の中でまだ、笑おうとしている。

何度言ったろう?わたしの心に刻み込ませようとするように、笑いながら、息を切らしながら、熱のせいでろれつが回らなくなっているのに、必死に無理をして。


(姫様、わたしは大丈夫)


わたしはこの笑顔に、同じ価値のあるなにを返してあげられるだろう?

「クリフト、待っていて」

わたしはクリフトの頬から手を離して立ち上がった。

「もう、ごめんねって言わないよ。次にここへ戻って来る時は、わたし、お前にありがとうって言うから。

元気になってくれてありがとう。そばにいてくれて、ありがとうって。そのために、わたしもわたしに出来ることをやるね」

クリフトは答えない。さっきまでと打って変わって、意識のない彼の横顔は紙のように白く動かない。

わたしは踵を返して、扉を開けた。苦しむ彼をここにひとり置いて行くのは、身を切られるよりもつらい。

でも、わたしはわたしのやるべきことを探さなければならない。わたしは翼の生えた自由な鳥で、大地を照らす太陽の生まれ変わりだと、いつもクリフトが笑って褒めてくれた。

どんな時も決してくじけず、前を向いて進んでいく貴女様は、なによりも強い生きる力にあふれています、と。

(大丈夫、きっと出来る。わたしは持っているもの)


お前がわたしに教えてくれた、ごめんねをありがとうに変える力。


扉を後ろ手に閉め、横たわるクリフトの姿は視界から消えた。

わたしは歩きだした。

ふたたび会う彼に伝える言葉を胸で温めながら、前に向かってもう一度、今度は心からの彼の笑顔を、この瞳にとらえるために。




-FIN-

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