ホワイトデイ
傍らに座って、子猫が甘えるように腕に頭をすり寄せようとすると、さりげなく身を引いたからおかしいとは思っていた。
良くも悪くも嘘がつけず、思っていることが逐一行動のひとつひとつに出やすい彼。
真面目なんだからしょうがない……と、寛大に許してやりたくはあるものの、久し振りに会うのにその態度はなによ、と文句を言いたくもなる。
疑問を一切ぶつけない物わかりのいい恋人には、やっぱりわたしはなれそうもない。
~ホワイトデイ~
神官として多忙な職務の合間をぬって、ひと月ぶりに王城へ会いに来てくれたクリフト。
いつも会うなり、端正な顔を紅潮させて嬉しさをあらわにする彼が、せっかくの逢瀬にも今日は浮かない表情を浮かべている。
「どうしたの、クリフト。そんなに困った顔をして、なにか悩みでもあるの?」
「は……、いいえ。悩みなどありませんよ。どうぞご心配なさらず」
はい、あるのね。
言葉と表情がこれほど一致しない人も珍しい。
おそらく彼は今、なんらかの問題を抱えているのだ。職務遂行に鋼のごとき信念を持つ彼のこと、住まいであるサントハイム城市教会での仕事や人間関係、その他もろもろにおけるなんらかの。
「隠すことはないわ。相談して、クリフト。わたし、お前の力になりたいの」
とっさに口にしたのはもちろん掛け値なしの本心だけど、これには少しだけあざとい裏ごころも隠されている。
クリフトの悩みが解決しないと、わたしたちはいつものように仲良しになれない。
彼はとにかく超がつくほどの堅物で、身の回りで憂慮すべき事態が発生しているのに、自分だけが恋人とのうのうと甘い時間を過ごすわけになどいかない、という考え方の持ち主なのだ。
つまり悩みが解決しない限り、クリフトはいつものようにわたしを抱きしめてはくれない。
「アリーナ様、大好きです」とも言ってくれない。
このままだといつものようにほっぺにキスもしてくれないし、「わたしは貴女が、とても好きです」と、溶かしたてのキャラメルのような愛の言葉を囁いてくれることもないのだ。
(そんなの嫌!)
なにも顔を突き合わせるたび、好きだ好きだ、愛してると告げてほしいと言っているわけじゃない。
でもお互いに厄介な肩書を持つ忙しい恋人同士、せめて十日に一度、三十日に一度、もどかしいほど待ち続けたたった一日くらい、思う存分わかりやすい愛情が欲しい、と望んだって罰は当たらないでしょう?
「なにがあったの。お願い、話して」
わたしの言葉に切迫したものを感じたのか、クリフトは「うーん」と困ったように首を傾げてから、渋々口にした。
「アリーナ様、ホワイトデイ、というものをご存知ですか」
「ほわいとでい?」
わたしは瞬きして繰り返した。
「知らないわ」
「では、古代歴の二月十四日にあたる聖人の祝祭日が、女性から男性へチョコレートを贈って恋心を打ち明ける日だということは」
「それは知ってる。大昔の習わしのバレンタインデイでしょ。古い書物で読んだことがあるわ。
わたしはちょうどその時期、スタンシアラで行われた園遊会にお父様と出席していたからサントハイムにはいなかったけど。
カーラに聞いたけれど、街では最近、古い慣習を復興させて楽しむ遊びが流行っているんですってね。
城下随一のハンサムとして名高い誰かさんは、ずいぶんたくさんチョコレートを貰ったんでしょうね」
「その……じつはそのことで、困った事態が起きていまして」
嫌味に気付いているのかいないのか、否定しないのにはかちんと来たが、別に彼がもてるのは彼自身の非ではない。
整った外見と温和で優しい人柄のせいで、クリフトは昔からとにかく女性によくもてた。
そのうえ、わたしと魔法使いのブライと共に天空の勇者を助けて世界を救い、サントハイムの英雄として国民の崇拝を一気に集めるようになってから、その人気は今や過熱状態なのだ。
本当は、バレンタインデイの習わしが街で流行っていることも、スタンシアラに出発する前から知っていた。
わたしだって一応女の子、恋人たちの心浮き立つイベントに興味がないわけじゃない。大好きな人にとっておきの贈り物をするのだって楽しい。
でも、きっとクリフトは数えきれないほどたくさんのチョコレートを貰うだろうと思うと、自分が「そのうちのひとり」になるのがなんだか悔しくて、敢えてなにも知らないふりをして国を離れたのだ。
「困った事態って、なあに」
わたしは内心のもやもやした感情を押し隠し、何でもないことのように尋ねた。
「クリフト、甘い物好きでしょ。チョコレートを貰うのは嬉しいんじゃないの」
クリフトは「それは……まあ、ほどよい量であれば」とますます困ったように形のよい眉を八の字にした。
「わたしは昼夜教会に詰めていますので、あまり街なかの若者の流行というものにさとくありません。
バレンタインデイの習わしが流行っているなど知りませんでしたので、突然のことにずいぶん戸惑いましたが、チョコレートをお贈り下さった方々には心より礼を述べ、全て有り難く頂戴しました。
ですが、礼拝に来られた城下街の菓子屋のご主人に、バレンタインデイと並んでホワイトデイという習慣も流行っていると聞いたのです。
チョコレートを貰った男性は、お返しに古代歴三月十四日にあたるちょうど一ヶ月後、クッキーやマシュマロ、飴などの菓子を女性へ贈り返すのだと」
「それがホワイトデイっていうのね。初めて聞いたわ」
「バレンタインデイとは違い、古代東方の小さな国々で独自に行われていた行事で、世界的に浸透していたものではないようですから」
「チョコレートをくれた人たちにお返しをすればいいじゃない。クリフト、いつも口を酸っぱくして言ってるでしょ。
人はなにかを与えられたら、どんなかたちでも必ずなにかを返さなければいけないのです、って」
「し、しかし、あれほどの量の返礼をわたしひとりで作るにはあまりに……、買うにしてもおそらく、街じゅうの菓子店を回ってもまだ足りないかと」
クリフトはさっと顔色を変えたわたしに気づき、口をつぐんだ。
「いえ、なんでもありません」
「待ちなさい。お前、一体いくつチョコレートを貰ったの?」
「いえいえ、大したことはありません。ほんの片手で数えきれるほどで」
「だったらどうしてお返しに困るのよ」
わたしは怖い顔をしてみせた。
「正直に言って!嘘はきらい」
「わ、わかりました……」
クリフトは観念したようにため息をつくと、私の耳元に唇を寄せてぼそぼそ、と小声で数を告げた。
「な」
わたしは目を丸くした。
「そんなにたくさん?!」
「で……ですから、全てお返しをせねばならぬと知って、正直なところどうしようと困り果てているのです。
手紙やカードを添えて下さった方々はまだしも、名前を名乗って下さらなかった方や、教会の扉口に置いてあっただけのものも非常に多く」
「それほどの数、全部お返しをするなんて無理に決まってるじゃない。顔や名前がわからない人は、残念だけど諦めるしかないわ」
「とても手の込んだ包装を施した品や、粉砂糖でチョコレートのひとつひとつに美しい絵が書かれているものもありました。勿体ないことです。
なんとかして、直接お返しできない方に感謝の気持ちだけでも伝えられたらいいのですが」
「感謝、感謝って……なによ。ねえ、そういうのええかっこしいって言うんじゃないの?」
次第に腹が立って来て、わたしはつんと顎を上げて言った。
「相変わらず、お前は乙女心ってものがまるでわかっていないのね、クリフト。
お前にチョコレートを贈った女の子たちは、なにも通り一遍の感謝の言葉が欲しいわけじゃないわ。
たとえ百万回のありがとうを重ねても、彼女たちの真摯な気持ちに応えることが出来ないのなら、むしろ中途半端にお礼なんか言わない方がいいの。まったく鈍感なんだから」
「そ、そういうものですか」
「それほどたくさんのチョコレート、どうせひとりじゃ食べきれなくて困っているんでしょ。
だったらそれを使って、ホワイトデイにわたしたちふたりでチョコレートケーキやブラウニー、ガトーショコラを山ほど作るっていうのはどう?
出来あがったたくさんの甘いお菓子を、教会で礼拝者たちにも振る舞うの。お前が貰った愛情を、感謝を込めて街のみんなにおすそわけするのよ」
「それは……素敵ですね。名案です」
途方に暮れていたクリフトの顔が、ようやく明るさを取り戻した。
「ではわたしは当日、お贈り下さった全ての皆様へ向けて祭壇で感謝の祈りを捧げたいと思います」
「それにしても、そんな大量のチョコレート、今どこにしまってあるの」
「教会の聖堂内の蔵に」
「おいしい匂いを嗅ぎつけてアリやネズミが寄って来ないうちに、少しくらい食べておいた方がいいわ」
わたしはそこで、おっほんと咳払いした。
「なんだったら、わたしが手伝ってあげてもいいけど」
「それは助かります。なにせ、いくら食べてもまったく減らなくて……。じつは、今日も持って来ているのですよ」
クリフトは萌黄色の神官服の懐に手を入れて、赤い紙で包まれ、リボンの掛けられた平たい箱を取り出した。
「もしも足りないなら、もっと持って参ります。どうぞお召し上がり下さい、アリーナ様」
やっと悩み事が解決し、心のつかえが取れたというように、クリフトはわたしに寄り添うと白い歯を見せてにっこり笑った。
美しい光沢をきらめかせたリボンは、彼の器用な指によってたやすく解かれ、開いた箱の中には栗の実ほどの大きさのチョコレートが整然と並んでいる。
ホイップ型のチョコレートに、表面に真珠型の粒を乗せたチョコレート。噛みしめるとはちみつ飴のような酒が溢れるチョコレート。全て、送り主の女性が心を込めた手作りだろう。
わたしはクリフトの隣に腰かけ、ひとつ、またひとつと琥珀色の塊を口に運びながら、この城下街のどこかにいる顔も知らないその送り主のことを思った。
(きっとこれを作った女の子は、溶けたチョコレートで手も服もべたべたにしながら、クリフトだけを想って台所で奮闘したんだろうな。
当たり前だけど、大好きなクリフト本人にこれを食べてもらうつもりで、一生懸命がんばったんだろうな)
いいえ、その子だけじゃない。まるで読まなくなった本のように無造作に蔵に押し込められている、山のようなチョコレートを贈ったすべての女の子たちが、その甘い愛のあかしが恋しいクリフトの唇に吸い込まれることを望んでいたはずだ。
このチョコレートの力で、もしかしたら彼の心を得られるかもしれないという淡い期待に胸をふくらませ、わたしみたいなお邪魔虫に食べられてしまうことも、教会で誰彼なく配られるお菓子に化けてしまうことも、決して想像していなかったはずだ。
木箱を包んでいたリボンはそっけなく解かれて床に落ち、わたしたちふたりの足元でふわふわ所在なげに揺れている。
クリフトは連日のチョコレート攻めの生活にもう飽きているのか、ひと粒だけ口に放り込むと後は手を出そうとせず、旺盛に食べるわたしを優しい目で見守っている。
(バレンタインデイって……、もしかしたら、とても残酷な儀式なのかもしれないわ)
ありったけの愛を込めた甘い贈り物は、皆に平等に与えられた機会ゆえに価値は軽く、時に知らないどこかで知らない誰かの手に渡ってしまうこともある。
舌をとろかすチョコレートは、甘い誘惑の中に決して叶わぬ恋の悲哀を隠し持っている。
「わたし……、これからもバレンタインデイにお前へチョコレート、あげないことにする。
ホワイトデイのお返しも、欲しくないわ」
なんだか不思議に悲しくなり、ぽつんと呟くと、クリフトはぎょっとした顔でげほげほと咳き込んだ。
「ど、どうしてですか?アリーナ様」
「……だって、わたし」
その他大勢じゃない、お前の「特別」でいたいから。
バレンタインデイに祈りを込めてチョコレートを贈る「そのうちのひとり」じゃなく、彼が貰ったチョコレートを隣に座って一緒に食べる「たったひとり」でいたいから。
ホワイトデイにお返しを貰えるかどうかやきもきする「そのうちのひとり」じゃなく、なにを返そうかと彼と一緒に悩んであげられる、「たったひとり」でいたいから。
でも短くて不器用な今の言葉だけでは、鈍感な彼にその真意は伝わらなかったらしい。
クリフトは必死で息を整えると「アリーナ様、わ、わたしは本当はですね、想いを告げてもらえるのならば貴女だけに……」と、わたしをおろおろと覗き込んだ。
わたしの肩を引き寄せる彼の膝に乗った木箱の中で、整然と並ぶ丸いチョコレート。
ホワイトデイのひと月前、古き良きバレンタインデイの、名前も知らない誰かの恋の捧げ物。
重なった唇からこぼれたその残り香が、さっきよりずっとほろ苦く感じたのは、きっとわたしだけの気のせいじゃないはずだ。
-FIN-