主よ、人の望みの喜びを
きつい顔をして諌める門番に、お願い、ほんのすこしだけだから、と頼みこんで外に出てみると、そこはひどい吹雪だった。
大粒のぼたん雪が、たちまち目と言わず鼻と言わず羽虫の群れのように入り込んできて、わたしは温かい毛織のケープの中で身をすくめ、あわてて踵を返して城へと戻った。
ぎいい、と音を立てて背中で門が閉まる。
木扉一枚隔てた向こうで暴れ狂う風鳴りが嘘のように、しんと静寂が立ち込める。
分厚い天井と壁に包まれた建物の中は、外とは違ってあたたかい。
聖サントハイム王朝は開闢(かいびゃく)ニ千年を誇り、その拠点たる王城も歴史に比例して古い。これまで幾度となく改修の手がくわえられたとしても、おそらく建築千年を下らないと言われている。
だが城中の石壁も円柱も回廊の尖頭アーチもよく磨かれ、細部まで手入れが抜かりなく行き届き、千年の時間経過を感じさせぬほど美しい。
尖塔がひだを織りなすように幾重にも並ぶ建築様式は、世界各国を見ても他に例がなく、栄華無粋のエンドール、優美古都のサントハイムと、新興国家エンドールへの揶揄を込めて比較されるほどだ。
今この時代にあって、流行遅れの古臭さをいささかも感じさせないのは、いにしえの王家に雇われた技師や大工たちがよほど技術の粋を尽くした、当時稀に見る典雅壮麗な一大宮殿だったのだろう。
「アリーナ様」
部屋に戻ると、木机の前に萌黄色の神官服を着たクリフトが立っていた。
わたしに気づいてにこりとほほえみ、床に片膝をついて恭しく臣下の礼を施す。
「貴きアリーナ姫様には、本日もご機嫌麗しく。お留守のあいだに御部屋に参上したご無礼を、どうぞお許しください」
「かまわないわ」
「先刻、ブライ様より仰せつかって参りました。これより午後は、姫様はわたしと聖書御読の時間です」
「ええ、また?」
わたしはあからさまに嫌な顔をした。
「ブライったら、このところやたらと宗教書ばかり読ませようとして、まさかわたしをクリフトみたいに神官にでもさせるつもりなのかしら。
聖書ならこないだ一日がかりで、やっと最後まで読み終えたばかりでしょ」
「書物とは一度や二度目を通しただけで、文字に乗る思い全てを受けとれるわけではありません。
幾度も、幾度も、飽きるほど読みこまなければならないのですよ。それが優れた書物であればあるほど、尚更」
穏やかだが芯のある、いつも通りの揺るぎない口調。
もともとわたしより頭ふたつぶんも背が高いのに、教会お仕着せの長い聖帽まで被っているものだから、こうして姿勢よく立っていると彼はますます長身に見える。
クリフトは一歩後ろに下がって会釈し、わたしに椅子に座るようやんわりと促した。
「どうぞ、姫様」
「わかったわ」
部屋のこもっての勉強も難しい聖書の音読も、率直に言ってきらい。
だが五つ年上のこの優しい幼馴染に思いがけず会えるのは、どんな理由であれ嬉しくないはずがない。こんな寒い日は、特に。
わたしは黙っておとなしく机につき、金メッキの打たれた聖書の革表紙を開いた。クリフトは蒼い目を細めてまたほほえんだ。
「わたしの持ちうる力の限りで、精一杯お教えさせて頂きます。
一緒に頑張りましょうね、アリーナ様」
相変わらずの、彼の周りだけ冬が巡るのを止めてしまったような笑顔だ。この笑顔が知らず知らずの武器となり、このところ教会に若い女性の礼拝者が急増したのを知っている。
幼い頃は、気の強いわたしに当たられるだけですぐに泣きだしそうになっていたのに、声が低くなり、背が伸び始めた頃からべそをかくことは一切なくなり、子供らしかった顔つきもぐっと精悍になった。
彼といると、普段はどこかに隠れている胸の内のパズルがひらひら降りて来て、盤の上のひとつだけ空いた空間にかちんと嵌まるような気がする。
たぶんわたしは、この人と一生一緒にいるのだろう。
わたしはクリフトと一生共にいる。予感なのか、願望なのかよくわからないけれど、それはわたしにとってたった今読んだ聖書の文句より確かな未来の真実だった。
部屋の隅の暖炉では、橙色の炎がぱちぱちと爆ぜている。クリフトがいると、そこにふんわりと白檀の甘い香りが混じる。
あたたかい空気は眠気を誘い、舌を噛みそうな聖書の音読にどうしても集中できなくて、わたしはため息をつくと机の上の窓を見上げた。
「ね、クリフト」
「はい」
「この雪、いつまで降り続くと思う?」
突然読むのを止めたわたしを、クリフトはやや咎めるように見たが、しばらく考えてから言った。
「そうですね……。サントハイム王城はサラン海岸に程近く、西からの雪混じりの海風をまともに受けます。それでいて北をテンペの山岳地帯に囲まれ、一度吹き込んだ寒波がなかなか去りにくい。
おそらく、あとふた月ばかりは続くかと」
「なんてつまらないのかしら」
わたしは目を閉じて首を振った。
「こうも吹雪が続いては散歩にだって行けないし、野山を駆けて武術の鍛練に勤しむことも出来ないわ。
こうしてお城の中でぼーっとしているうちに、わたし、どんどん弱くなってしまっているのかもしれない。そもそもこんな暮らしじゃ、自分が今どのくらいの強さなのか確かめることも出来ないの。
人が強くなるためには、誰かと比べなきゃいけない。自分以外の誰かと競わなくちゃいけないのよ。ライバルが必要なの。
こんなところにこもりきりで、自分ひとりだけで向上心を保つのはとても難しいわ」
「それはそうかもしれませんが……しかし他人と比べ、他人の物差しで自分を推し量った結果が、果たして真の強さと言えるでしょうか」
クリフトは肩をすくめた。
「確かにどんな物事も、ある程度の高みまで昇るには心騒がせる好敵手の存在が必要でしょう。
ですが人は最後は皆、自分と向き合い戦うものです。強さではない、己れ自身の弱さと」
「お前の言ってることはわかるわ。でもわたしが極めたいのは勉強じゃない、武術なの。相手があってこその戦いなのよ。
わたしは戦いたいの。誰にも負けたくないの。この世界中の誰よりも強くなりたいの」
その時、ごうっと突風の吹きつける音が響いて、窓の桟が太鼓を打つようにがたがたっと激しく震えた。
絶妙のタイミングでなったそれは、まるでわたしの言葉に対する強い賛同のように聞こえて、わたしが思わずくすっと笑うと、どうやらクリフトも同じことを考えたらしく、形のよい眉を仕方なさそうに上げてみせた。
「わたし、いつか旅に出るわ。必ず」
わたしは言った。
「この城を飛び出して、この国を飛び出して出かけるの。自分自身の強さを知る腕だめしの旅に。
この雪が止んで、春が来たら。冬が終わるのにじっとしてなんかいられない。
見知らぬ大地が、太陽の光が、冒険の匂いがわたしを呼んでいる。わたし、後悔したくない。一度きりの人生を悔いなく生きたいの。
だから止めたって無駄よ、クリフト」
クリフトは黙ってほほえんだまま、なにも言おうとはしなかった。
わたしの心の水面に描かれる波紋を覗き込もうとするようにそっと首を傾け、「さあ、もう一度最初から始めましょうか。姫様」と静かに聖書の頁を繰った。
言葉にしなくても、わたしにはわかる。
もしもその時が来たら、たぶん、……いいえ。
必ずこの人は、わたしと共に行くだろう。
わたしというパズルの、彼は最後の一片のピース。一秒先になにが起こるかもわからないこの世界で、たったひとつわたしが胸を張って、誓いよりも高らかに世界中に誇れること。
クリフトはわたしと一生共にいる。
黄白色の紙にかたどられた聖句を指で追いながら、予感が確信に、確信が希望に変わることを信じて、わたしは傍らの蒼い目を見上げた。
まなざしが雲間から射す光のようにまっすぐわたしに降りると、聖なる言葉はいつしかいざない歌に変わり、完成したパズルが作り上げた一篇の絵画の題名を教えてくれる。
かさなる指先が押さえた聖書の文句を、わたしたちは声を揃えて読んだ。
「……主よ」
クリフトはその最初の言葉を口にする時、決して見失うまいとするかのようにわたしを食い入るように見つめた。
「アリーナ様。わが主。
貴女の望みがわたしの喜び。
主よ、人の望みの喜びを」
-FIN-