始まりへの旅立ち
気を利かせた侍従たちが音も立てずに退出していき、明かりを落とした広い王族専用寝室は、いつのまにかわたしと彼女のふたりきりになっていた。
気づけばもう数十年を数えるほど、ふたりで使ったこの部屋。
沈黙というもっとも安らかな音色が、横たわる影と立ちつくす影のあいだに澄みきった終局の弦を張る。
わたしは睫毛を伏せ、読み終えた本の頁を閉じるようにそっと呼吸を止めて、寝台の上で愛する人が眠りにつく姿を見つめた。
怖くはなかった。
悲しくも。
悲しいはずはない。
自分はもう長いこと神の子供として生きて来て、この世のあまねく生命が抱くたましいの存在の意味も、それが身体という器を失って向かう場所がどこなのかも、すべて知っているのだから。
だから悲しくはない。
この愛する人のたましいがこれから向かう世界で過ごす途方もなく長い時間に比べれば、こんなことはほんのまばたきのあいだの出来ごとのようなものだ。
そう、ほんのまばたきのあいだ、あの懐かしい旅の始まりの時のようにわたしが貴女を追いかけ、その背中に追いつくまでのあいだ、離れているだけ。
わたしは床に膝をついて彼女の耳に唇を寄せ、蝋燭を吹き消すようにそっとささやいた。
「今日まで本当に、よく頑張られました。やっと身軽になられましたね。あの頃のように。
この広い世界を風のように縦横無尽に駆け巡った、あの頃のように。太陽の光が息づくおみ足で、分厚い壁を力強く蹴破ったあの頃のように」
手を差し伸べて触れたほほはまだ温かみを残し、珊瑚色のつやを留めた唇は、思い出話に興をそそられてほほえんでいるようにも見える。
ふたたびこの唇が開いてわたしの名を呼ぶことももうない代わりに、大量の薬でももはや抑えることが出来なかった苦痛に歪むこともないのを、その時のわたしは素直に喜ぶことが出来た。
そんな自分を誇りに思えた。
それなのに、どうしてだろう。
わたしの瞳からはいつのまにか、ひとすじ、またひとすじと涙が静かにあふれ落ちていたのだ。
「愛しています、貴女を。
この命の全てをかけて、心から」
わたしは涙を拭おうともせずに笑った。
「お前の笑顔が好きよ」と、はにかみながら何度も告げてくれた愛する人のついの旅立ちにわたしが捧げるべきものは、それしかなかったからだ。
「貴女のことが好きで、好きで、どうしようもなく好きで仕方ないから、本当はこうして置いて行かれてしまうのはとてもつらい。
でも、待っていて下さいね。すぐにわたしも追いつきますから。ご安心なさって下さい、見失うことなんてありません。
貴女はわたしの宿命。
たとえどれほどの輪廻転生を繰り返そうとも、幾度の生と死を越えようとも、太陽に焦がれて後を追いかける月のように、わたしは永遠に貴女の背中を追うでしょう。
だから、またお許し頂けますか。わたしが貴女を愛することを。
この命を終え、ふたたび生まれ変わり違う形の器を得ようとも、何度でも変わらず貴女への恋に落ちることを」
動かない唇は「仕方ないわねぇ、いいわよ」とも、「えーっ、また?わたし、お前の堅苦しい愛の言葉はもう飽き飽きなの」とも言わなかった。
寂しくはなかった。
悲しくも。
悲しいはずはない。
苦しいほどいとしいその声が、神のさだめた時間を終えて奏でる手段を失ったからといって、喪失を悼んで過去を悔いるような中途半端な愛し方をわたしはして来なかったからだ。
わたしはいつも、全身全霊で貴女のすべてを愛した。
だから胸を張って送り出せる。
この旅立ちを。
終わりという新しい生への始まりを。
幾千、幾万の転生を越えてまた、あたふたと手を振りながら追いかけるであろうなによりもいとおしい貴女の背中へ、わたしは心からの笑顔でつかのまの別れを告げる。
「行ってらっしゃいませ、アリーナ様。旅のご無事をお祈りしております。
また、必ずお会いしましょうね。わたしの大好きな、いとしいおてんば姫様」
-FIN-