愛を誓う場所
気球に揺られながら臨む眼下の光景が、広大な海から大地へと変わる。
空の透んだ蒼、海の深い蒼。
たった二色の濃度の違う青に包まれていた景色に、緑と琥珀の色彩が飛び込み、やがて主役の立場を意気揚々と奪う。
帰って来た。
すべて終わった。
すべてが終わって、世界には平和が訪れて、わたしたちは帰るべき懐かしい祖国へと、ようやく戻って来た。
この目に映るサントハイム王城は、まだ飴細工の玩具のように小さい。
だが、どれほど小さく見えようとも、気球が近付くのを待ち構えていたように、小気味良い音を立てて上空に打ち上がった花火を認めると、わたしたちは知らずにはおれなかった。
皆、戻って来ているのだ。
神隠しに遭い、姿を消してしまった愛するサントハイムの民。
「みんな……」
傍らで、落っこちそうなほど身を乗り出して王城を見つめていたアリーナ姫が、こらえ切れないように吐息を洩らした。
「よかった……。
よかったわ、本当に……、
よかっ………」
言葉は最後まで続かなかった。
アリーナ姫の鳶色の瞳からは大粒の涙があふれ、紅潮した顔が子供のようにくしゃっと崩れると、彼女はしゃくり上げて盛大に泣き始めた。
「嬉しい。本当に、嬉しい……!
わたし、一度だって諦めたことはなかった。
みんな必ず帰って来るって、いつだって強い気持ちで信じていたの。
それなのに、変ね。これ、嘘じゃないわよねって、おかしいくらい怖がってるわたしがいる。
夢じゃないわよね。みんな、ちゃんとあそこでわたしたちの帰りを待っててくれているのよね。
ね、クリフト……」
「夢じゃありません、姫様」
わたしは頷いて、アリーナ姫の隣に並んだ。
ゆっくりと下降する気球の前に、太陽に照らされた祖国の輝く大地が近付いて来る。
「これは決して、夢ではありません。
空を巡り、海を滑り、大地を駆ける果てしない冒険の旅はついに終わった。
わたしたちは帰って来たのです。あれは、わたしたちのかけがえのない故郷。
あれは……、貴女の国。アリーナ様」
泣き濡れた目でわたしを見上げると、アリーナ姫は頬を涙で濡らしたまま、とても嬉しそうに笑った。
「ありがとう、クリフト。
わたしたち、大好きな故郷へ一緒に帰って来られたのね。
待っている人がいるって……、すごく幸せね」
わたしは黙って微笑み、静かに彼女から目を逸らした。
気球は下降し続ける。
本棚に並べた聖書のように、胸の奥できちんと整理しておいたものが、たったひと握りの痛みでばらばらになる。
心が、目に見えないものでよかった。
目に見えないから、言葉でつくろえばどのような美しい色にも飾り立てられるのに、馬鹿なわたしにはそれが出来ないから。
「はい。幸せです」と言うことが出来ないから。
「はい。わたしは貴女と故郷へ戻ることが出来て、何より幸せです。アリーナ様」と。
(旅が終わる)
(アリーナ様と過ごした日々が、去る)
世界が平和になるよりも、わたしはこのまま貴女のそばで、七色の虹のようにきらめく貴女の笑顔を見ていたい。
でも、それはもう許されない。
王女である貴女は石造りの城へ帰り、わたしは神の息吹きを紡ぐ教会へ帰り、わたしたちの間には元通り、身分という境界線が引かれる。
わたしたちはまた、遠くなる。
「クリフトも、泣いてるの?」
アリーナ姫はわたしの顔を覗き込んだ。
「そんなふうに下を向いて、無理に隠さなくたっていいのに。
もしも、神様が思いきり泣いてもいいぞってたった一日だけ許してくれる日があるなら、それはきっと、今日のことだわ」
……いいえ、姫様。
神は、わたしに泣いてもいいぞなんておっしゃらない。
心に秘めた寂しさも、訪れる未来への不安も、どうしても手放したくない愛しい日々へしがみつこうとする弱さも、神は全部見抜いているはずだから。
「よう、クリフト」
その時、わたしの背後にすっと近づいて来たのは、天空の勇者と呼ばれる緑色の目をした少年だった。
「……勇者様」
「めでたい凱旋の日に、うっとおしいぞ。男のくせにめそめそ泣くな」
「な、泣いてなんかいませんよ」
「世界が平和になって、無事に故郷へ帰って来たんだ。これ以上嬉しがらなきゃいけないことが、他にあるか」
「だから、喜んでいますってば。
言葉に尽くせぬほどの喜びを、しみじみと噛みしめていただけです」
「お前の場合はしみじみじゃなくて、うじうじだろ。根暗の悪魔神官」
ぶっきらぼうで、優しさをわざと隠すように冷たく装った声音が、風が吹き過ぎるようにふっと呟いた。
「……いいよな、お前は」
「え?」
勇者の少年はわたしの方を見ずに、透明な声で言った。
「こうして手を振って、笑顔で戻る場所がある。
好きだと思う相手を、これからも自分の目で見つめることが出来る。
お前の恋する姫御前は、どこにいたって、今も生きて、お前の視線の先にちゃんといるだろ。
この程度でつらいなんて言ったら、殴るぞ」
わたしはうつむき、今では大切な親友である彼の心境を慮れなかった、自分の無神経さに唇を噛んだ。
「……本当ですね。申し訳ありません。
わたしは貴方の言うとおり、女々しく根暗などうしようもない悪魔神官です」
「安心しろ。それがお前のいいところだって言う奇特な奴らも、世の中には腐るほどいるさ。
見ろ、クリフト。森の木一本一本が、あんなに小さい。
それに比べて、サントハイムの城はここから見ても随分とでかいな。
俺は故郷を失くして旅に出るまで、城なんて絵本でしか見たことがなかった。
世界にはいろんな種類の人間がいて、作りものみたいな城の中で何百人、何千人もの人が暮らしてるなんて、知りもしなかったんだ」
勇者の少年は近づいて来る白亜の王城を、まぶしそうに見下ろした。
「あの城で、あの街で、お前とアリーナは育ったんだよな。
笑ったり怒ったり、飯を食ったり寝たり、いろんな一瞬を時計の針を回すみたいに繰り返して。
これからも、お前らふたりはあそこで年をとって行くんだろうな」
「そうです」
「それって」
勇者の少年は言い淀んで、ぽつりと続けた。
「……それって、すげえことだ。
当たり前なのに………なんか、奇跡みたいだ」
「はい」
わたしは顔を上げ、頷いた。
「わたしにとって、この美しいサントハイムに生まれ育ったことは、この冒険の旅を無事に終えたことと同じほどの、素晴らしい奇跡でした」
言いきってしまうと、突然、息苦しいほどの強烈な誇らしさが胸に渦巻いた。
そうだ。
この国で生まれ育ったことも、愛するお方と共に、ふたたびこの国に帰って来られたことも、奇跡だ。
あの城が、あの街が、いつだってわたしの心から愛する場所だった。
わたしはあの場所で学び、育ち、そして最初で最後の恋に落ちた。
初めて瞳を交わしたとたん、いたずらな天使に魂を盗まれるように、心ごと彼方へさらわれた。
年齢と共に、手に負えないいとおしさだけがぐんぐんふくらんで、子供の殻はいつしか脱ぎ捨てられ、幼い頃のような純粋無垢さを全く失っていないなんて言えないけれど、
それでもこの想いだけは、今日も、明日も、きっといつまでも変わらない。
……だから、やっぱり帰らなければ。
わたしたちの愛するあの場所へ。
絹糸のような美しい髪を風にそよがせ、勇者の少年は不思議に柔らかい表情を浮かべて、足元の景色に目を注ぎ続けている。
傍らで、なぜかアリーナ姫がわたしをじっと見ている。
大声で泣きじゃくって喜んださっきとは打って変わって、不安そうに頼りなく潤んだ目。
きっとまた、やっぱりこれは夢なんじゃないかと心配になったのだ。
でもこんな時、どんな言葉を渡せばいいのか、子供の頃からずっと貴女を見て来たわたしは知っている。
「大丈夫です、姫様」
わたしは背を屈め、アリーナ姫に寄り添うようにして囁いた。
「大丈夫です。なにも怖がることはありません。
伝説の妖魔リリスのもたらした、つらく悲しい悪夢は醒めて、怖いことはもう決して起こらない。
だから、大丈夫」
アリーナ姫は一瞬目を見開き、安堵したようににこっと笑った。
「ありがとう、クリフト。
わたし、……わたし、お前がいてくれて本当に良かった。
お前はこの長かった冒険の日々で、いつもわたしのかけがえのない力のみなもとだった。
お前と共に過ごせたことは、わたしの誇りだったわ」
過去形混じりの彼女の言葉は、どんな恩賞より貴く、そしてほろ苦くわたしの胸を打つ。
褒美を与えられ、役目を終えた守護騎士は、あるじの永の幸福を願いつつ、ふたたび遠い赴任地に帰って行くものだ。
「またいつか、一緒に旅をしましょうね、クリフト。きっと」
アリーナ姫の言葉に、わたしは頷いて深く頭を下げた。
「はい、アリーナ様。
きっと、いつかまた」
嘘でもいい。
別れの前の社交辞令でもいい。
貴女がそこにいる限り、わたしの旅は終わらない。
たとえこの身体が呼吸を止めても、もしも二度と会えなくなる日が来たとしても、消えない想いは空を巡り、海を滑り、大地を駆けて世界を旅する。
わたしは太陽の光を求める樹木のように、貴女に恋をし続ける。
再び帰るこの場所で、今、永遠に終わらない愛をこの胸に、誓う。
-FIN-