太陽になれる日
クリフトが笑う時、その歯の白さにどきりとする。
さらさらの髪は絹糸のようで、サントハイム民族らしく滑らかな肌は陶器の艶を放ち、瞳はサファイア色の湖水だ。
かつて勇者と呼ばれた少年が近付き難いほど完璧な美貌の持ち主であったのに対し、彼は春の日差しのような優しい面立ちをしていて、
悩みを抱えて教会へやって来る者には、その笑顔がことに安心感を与えるらしく、彼の知らぬところで「神の子供」の名はいよいよ貴ばれた。
それはごく自然に女性の関心をも引きつけ、教会に詰め掛ける若い娘たちがいつも彼を盗み見ては、悲鳴にも似た嬌声を上げている。
時に無理やり相談事をこしらえてなんとか彼に近付こうとしたり、告解を理由にふたりきりの時間を持とうとしたり。
彼女たちの積極的なアプローチを目にするたび身体中の産毛がざわざわ、電流のような怒りが駆け抜けたけれど、今は違う。
(だって、わたしだけが知ってるんだもの)
彼が今日、誰の部屋から直接ここに来たのかを。
うつぶせて眠る背中に浮き出た骨の隆起が描く波の美しさを、神官服を脱いだ身体の驚くほど引き締まった堅固さを。
(知っているのは、わたしだけ)
祭壇前に並ぶ祈祷台から少し離れた柱陰に立っていると、彼はふとわたしに気付いた。
途端に頬に血の色が差し、まなざしになんともいえず甘く柔らかい光が浮かぶ。
「神官様、それでこれからどうしたらいいのでしょう」
「あ、そうでしたね」
クリフトは慌てて目の前の相談者に視線を戻した。
「伺ったご様子では、息子さんの病は比較的軽症なようです。薬草をお出ししますから、三日間朝晩欠かさず飲ませて下さい。
水分と塩分を十分に摂らせること。部屋をよく温めること。空気が渇くといけませんから、濡れた手拭いを何枚か干しておくのも良いですね」
「息子は身体が弱いんです。もしもこれが流行りの感冒で、悪化でもしたら……」
「今貴方がなさるべきことは、起こるかどうかも解らない想像で不安がることではありません。
息子さんのお傍にいらして、安心させてあげて下さい。子供にとってお母さんの笑顔は、どんな薬草より一番の特効薬です。
どうしてもご不安とあらば、今晩わたしがお伺いして直接ご病状を確かめさせて頂きましょう」
「クリフト、しかしそれは」
「大丈夫です」
傍らにいた神父が咎めるように口を挟んだが、クリフトは微笑んで首を振った。
「ごく個人的な訪問です。ギルドのご意向に背くことは決して致しません」
簡潔な言葉だったが、断固とした響きを帯びており、神父は仕方なさそうに肩をすくめるとそれ以上なにも言わなかった。
慈善の一環として無償で医療行為を行う教会と、診療費を採り運営している医師ギルドの間でしばしば軋轢が起こり、
教会が個人の訪問診療まで行うのは越権であるとの戒告が、先ごろ文書で送りつけられたばかりなのだ。
青ざめていた母親の表情がぱっと明るくなる。
「神官様が来て下さるなら安心です。ありがとうございます。
よかった。これで神様がわたしの息子を治して下さるわ!」
「いいえ。どうか、お間違えありませんように」
母親を外へ送り出しながら、クリフトはゆっくりと噛んで含めるように言った。
「病気を治すのは神ではありません。魔法でもありません。
心の力に支えられた身体の力、そしてそれを支える周囲の人間の力です。
神の奇跡はその上に降る、ほんのひとひらの淡雪に過ぎぬもの。どうぞ、お大事に」
音を立てないように扉を閉めると、クリフトは振り返り、こちらに向かって歩んで来た。
わたしの前で膝まづくと、聖帽を外して左胸に手をあて、忠実な臣下の礼を取る。
「ようこそお越し下さいました。尊き王女殿下におかせられましては、本日もご機嫌麗しく」
「ありがとう。お前も元気そうで嬉しいわ、クリフト」
「勿体ないお言葉です」
右手を差し出すと、クリフトは恭しい仕草で口づけた。
ついさっきまで同じベッドで眠っていたのに、形式張った主従の挨拶など今更という気がするけれど、皆の手前仕方がない。
わたしとクリフトがまもなく王家の名において夫婦となることなど、まだこの国の誰ひとりとして知らないのだから。
几帳面に儀礼を済ませると、クリフトは立ち上がってわたしを見た。
よそよそしい他人行儀な表情はやにわに崩れ、済まなそうに眉尻を下げる。
「アリーナ様、急で申し訳ありませんが……今宵はお伺いすることが出来なくなりました」
「見てたわ。気にしないで。あのお母さん、子供のことがとっても心配そうだったものね」
「怪我と違い、病の多くは原因を目に見える形で知ることが出来ません。知識ある者が病状を詳細に説明することは、とても大切なのです」
「理由はそれだけかしら?」
「え……」
わたしは笑って眉を上げた。
「「母親」が不安げにしているのを見るのが耐えられないんじゃないの、お前?」
クリフトは顔を赤らめた。
「なぜお解りに」
「お互い母を早くに亡くして、「お母さん」にはひとかたならぬ思い入れがある身だものね。わたしたち」
「家族が疲れ、病んだ時ほど、雲間を照らす太陽のように明るく毅然とあらねばならない。
母親とは誰も変わることが出来ない、世界一大変な職業なのです。わたしごときが少しでも力になれるなら」
「確かに、太陽がその日によって暗かったり輝かなかったりしたら困っちゃうわよね」
「まだ幼い頃、わたしの母はいつも傍で優しく笑ってくれていました。
悲しいことに、その記憶も年々おぼろげになっていますが」
「あら、記憶があるだけいいじゃない。わたしなんてなにひとつ覚えてないわよ。
だからわたしの思うお母様も、いつも笑ってるの。肖像画と同じように。そのお顔しか……、知らないから」
わたしは皆に気付かれないように、クリフトの服の裾の端っこを掴んだ。
「でもわたしはこうして生きて、怒ったり泣いたり、お前に向けて百もたくさんの顔を作ることが出来るわ。
約束よ。今日は駄目でも、明日はきっと会いに来てね」
クリフトは困ったように微笑んで、わたしの手に手をそっと重ねた。
「もしも、それが可能でありましたら」
ここに神官として勤めている限り、彼は「はい、必ず」とは決して言わない。
わたしもそれにいちいち腹を立てることはもうしない。
こんなにも必要とされている彼を神のもとから大理石の城へと奪って行く、それが正しいのかどうかも解らない。
けれどわたしの中に眠るサントハイム王家の予知の血潮は、芯熱を持ってこう告げている。
彼が選ぶ道はこの国の新たな礎石となって、王室と民間という、大河を隔てるように分かたれたふたつの世界を繋ぐ、輝く希望の架け橋となるだろうと。
「ところで今日は朝早くから、どのようなご用ですか」
「なんでもないわ」
わたしは首を振って笑った。
婚礼前にふたりで一度、亡き母の墓前に報告に行こうと誘いに来たのだったが、言葉は既に喉元から消えていた。
大切にしたいものの価値は決して変わらないけれど、それを選び取る優先順位は時と場合で変わる。
それが結婚というもの、この世で一番愛している他人と生を共にするためのルール。
「お仕事頑張ってね、クリフト。お前がお休みの日にまた来るわ。その時はふたりで一緒に出掛けましょう」
クリフトは心配げな眼差しでわたしを見つめたが、やがて頷いた。
「申し訳ありません。ご寛慮、深く感謝致しま……」
言いかけてふと、思い直したように言葉が途切れる。
蒼い瞳が伏せられると、葦のような長身が前屈みになり、唇が耳朶に近付く。
「ありがとう、アリーナ様」
その時、触れるか触れないかの距離で囁かれた言葉は、どんな呪文より鮮烈にわたしに解けない魔法をかけた。
「優しいお心遣いをありがとう。わたしの、大切な奥さん。
いつだってわたしは、貴女がいてくれるから頑張れる」
顔を赤らめてぱっと離れたのは、祭壇からこちらを見ていた神父や修道士達が、冷やかし混じりの笑みを寄越したからだ。
「でっ、ではアリーナ様……また」
「う、うん。じゃあね」
真っ赤になって頭を下げるクリフトに背を向け、わたしは寄せ木造りの扉の把手を押した。
出て行きかけてちらりと振り返ると、彼は教えを乞う礼拝者達に四方を囲まれ、もうこちらを見てはいなかった。
前に向き直って、扉を後ろ手に閉める。
大丈夫、平気。
淋しくないと思えるのは、これまで決して持てなかったふたりの絆への自信が、ようやく芽生え始めたということ。
会えない不自由だって、次に一緒にいられる時間のための美味しいスパイスに出来る。
彼がそうさせてくれた。
(お母様、いつかわたしもなれそうな気がするよ。クリフトが一緒なら)
いつの日も、雲間を照らす太陽に。
城へ続く道をひとり戻っていると、先程彼と話していた女性が前を歩いているのが見えた。
追い越しざまにそっと視線をやると、まるで温められた日向水のような、安堵に満ちた微笑みを浮かべている。
(見て、クリフト)
お前は知らないところで、ちゃんと「お母さん」を笑顔にしているわ。
そしていつかわたしも、そのひとりになる。
次会う時に渡したい、溢れ出しそうな言葉のかけらたちを頬で転がしながら、わたしは軽やかな足取りで城下の教会を後にした。
―FIN―