幸福の名前


「……ああ」

白銀の王衣を誇らしげにまとって、今年もやって来た冬。

北方サントハイムの冬は厳しく、重ねる歴史に反比例して気温は毎年下がり、吐く息は吐いた分だけ凍る。

そこだけ切り取ったように温もりが憩うのは、城下教会の聖堂の奥、東の片隅にひっそりとある神官の部屋。

ぱちぱちと火が爆ぜる暖炉の傍に椅子を寄せ、分厚い本を熱心に眺めていたアリーナは、ため息をついて天井を見上げた。

「ああ、切ないわ」

エナメル細工のティーカップに温かい紅茶を注いでいたクリフトは、微笑んでアリーナを見た。

「お腹がお空きになりましたか、姫様。よければこちらにクッキーが」

「違うわよ!」

あでやかにカールした鳶色の長髪を胸まで垂らし、アリーナは憤然とクリフトを睨んだ。

「お前はどうしてわたしがため息をつくと、いつもお腹が減ってると思うのよ。

わたしは切ないって言ってるの。せ・つ・な・い」

「切ない?」

クリフトはきょとんと目を見開いた。

モンスター図鑑に収録された魔物の数より、珍言迷言あふれる姫様語録。

だが切ないなどと叙情的な単語は、これまで一度たりとも記録されていなかった。

おてんば姫の突飛な思考回路は、堅物な自分にはいつも解読不能。

だからとりあえず、さらっと流してみることにする。

「あ、そうですか。

それより姫様、こちらのクッキーは焼きたてですよ」

「馬鹿!あ、そうですか、じゃないでしょ。

どうしてなにも聞かなかったみたいに、さっさと違う話題に移るのよ!」

「で、でも」

眉を吊り上げて食ってかかるアリーナに、クリフトはたじろいで後ずさった。

「唐突に切ないわ、と言われましても、わたしはなんとお答えすればいいのか」

「あー、そう。そんな投げやりな言い方をするのね。お前もそういう態度を取るようになったのね。

ついに来たのよ、わたしたちにも。これを乗り越えなきゃふたりの仲はもうおしまいだわ」

「な……なにがですか?」

「倦怠期よ、クリフト」

アリーナは怖い顔でクリフトを見上げた。

「お前とわたしは、初めて洗礼を受けに行った四歳の頃からの付き合いよね。

ずっと仲良くして来たけど、まさか出会って十五年目で、こんなに突然倦怠期が訪れると思わなかったわ。

なんとかこの危機を回避しないと、わたしとお前の間には激しい隙間風が吹き荒れてしまう。

最終的には食事も洗濯物も別々、同じ部屋にいてもまったく口を利かない、という有り様になってしまうのよ」

「洗濯物……?今のところ、姫様の聖なるお召し物とわたしの衣服を一緒に洗う機会には、まだ恵まれてはおりませんが」

クリフトは手元にあったクッキーの皿を、アリーナの前に差し出した。

「まあ、とりあえずおひとつどうぞ」

「うん、ありがと」

アリーナは一番大きいひとつをぱくりと口に放り込み、瞳を輝かせた。

「わぁ、おいしい!なあに、これ?普通のクッキーとは違うみたい。

歯触りがとてもいいし、すごく香ばしいわ」

「紅茶の葉を刻んで、生地に混ぜ込んでいるのです。休日礼拝の振る舞い用に作ったのですが、姫様もお好きだろうと」

「料理にお菓子作りに、お前はほんと器用ねえ。

この腕前なら、お城の料理人採用試験にもきっと合格するわよ」

「恐れ入ります。姫様がお召し上がりになりたいものがあれば、なんでもお作りさせて戴きますよ」

「ほんと?じゃあわたし、アマンディーヌが好きなの。ふわふわして、蜂蜜たっぷりの甘いやつ。

クリフトが作ったのが食べたいな……、って」

アリーナははっとした。

「違う!違うわ。わたしが言いたかったのはそんなことじゃない。

お前、どこまでも話をすり替えるのが得意ね。さすが、一日百件の告解を聞く有能神官だわ。侮れないわ」

「高ぶった感情を鎮めるには、いったん違う話題を挟んで気を逸らすのが一番ですからね」

クリフトはくすくす笑った。

「なんて、冗談ですよ。せっかくの姫様のお話を勝手にすり替えたりしません。

つまり姫様は、せつない……この本をお読みになって、そのようにお感じになられたのですね」

クリフトは椅子の上に置かれた本を持ち上げた。

「分厚い書物、珍しく何を読んでおられるのかと思いましたら」

「とてもためになったわ」

アリーナはクリフトの手から本を受け取ると、大事そうに胸に抱いた。

「こんなに真剣に本を読んだのは、生まれて初めて。さすが街で大人気の恋愛小説ね。

サランのマローニが書いた自伝、「ああ無情、恋人たちの倦怠期」よ」

「マローニさん……歌だけに飽きたらず文筆業にまで手を出すとは、まことに多才な方です。

ですがこの手の書物は風紀の取り締まり上、城への持ち込み禁止となっているはずですが、一体どこでこれを」

「お前の机の上にあったんじゃないの」

クリフトは目を丸くした。

「……そうでしたっけ?」

「そうよ!何日も置きっぱなしにしてあるから、好奇心で手に取ってみたんだけど、すごく面白かった。

恋愛経験が一回しかないわたしには、とっても興味深い内容だったわ」

「倦怠期がですか……」

クリフトは難しい顔をした。

「わたしとしては、姫様にはもっと違う類の書物に興味を持って頂きたいのですけれど」

「何言ってるのよ、クリフト。

愛し合う恋人たちが、年月を重ねるにつれて少しずつ一緒にいるのに飽きてしまうのよ。

これほど重要で、すぐになんとかしなきゃならない問題なんて、他にないわ!勉強なんて二の次よ」

「書物に共感なさる繊細な感性は、素晴らしいと思いますけれど」

クリフトはため息をつくと、アリーナの肩を抱いて引き寄せた。

「世俗的な恋や愛を扱う巷の読み物は、高貴な王女たる姫様にはお目汚しでしょう。

恐らくその書物は、教会に来られる相談者への対応に役立てるため、司教が独自にお取り寄せになられたものです」

「相談者って、恋の?」

「……はい」

クリフトは少し迷ってから言った。

「姫様だから申し上げますが、教会にはじつに多種多様なお悩みを抱えた方がいらっしゃいます。

恋人との不和についての訴えも、残念ながら少なくないのですよ」

「好きな人と上手く行かなくて困ってるって相談を、お前にしに来るの?」

「わたしにというより、正確には神に、ですが」

「お前はそれに、なんて答えるの」

「申し訳ありませんが、それは秘密です」

「なによ、それ!」

「具体的な答えを申し上げると、お受けしたご相談内容が解ってしまいますから。

わたしは神に仕える者として、秘匿義務を厳しく守らねばなりません」

クリフトは微笑んで、アリーナの髪を、小さな子供にするように優しく撫でた。

「どんなに睦まじい恋人たちの間にも、時に激しい衝突、深い亀裂が生じてしまうことがあります。

その度わたしは、この言葉を全てのご相談者様がたに託しています。

どうか、愛されたいという気持ちより、愛したいという気持ちを大切にして欲しい。

愛する存在がそこにいる幸福の価値を、もう一度思い出して欲しいと」

「愛する存在がそこにいる、幸福?」

アリーナは瞬きした。

「そんなの、今まで考えたこともなかったわ」

「愛するのも愛されるのも、決して自分ひとりで出来ることではありません」

「じゃあ、わたしってもしかして、すごーく幸せ者なのかしら?」

「さあ、どうでしょうか」

クリフトは微笑んでアリーナの額にくちづけた。

「貴女が幸福かどうかは、貴女ご自身にしかわからない。

わたしには、そうあって欲しいと願うしか出来ないのです」

「きっと幸せだわ、わたし。世界中の誰よりも。

でもそれを幸せだと感謝することを、もしかしたらなまけていたのかもしれない」

そうだ、いつも当たり前のように思っていた。

そこにクリフトがいてくれること。

それが、いつか失うかもしれないあやうい幸福だということを、わたしはつい忘れがちになる。

「ひょっとして、それを思い出すために神様が恋人達に与える試練が、倦怠期なのかしら?

その試練を乗り越えた者だけが、再び愛する幸福の価値を取り戻すことが出来るの。

大好きな人に飽きるなんて、思い上がりだわ。だってわたしたちが一緒にいられる時間は、決して永遠じゃないんだもの」

「一冊の書物から、そこまで深きお考えを巡らされるとは。さすがは我が愛しき姫様ですね」

クリフトは笑って両手をアリーナの背に回し、ぎゅうっと抱きしめた。

「貴女はいつも、ふと目にした物事に潜むたくさんの真理を、かくれんぼの鬼のようにひとつひとつ見つけ出す。

子犬のように好奇心旺盛で、可愛くて、素直で、無邪気で一生懸命で。

わたしは貴女が、大、大、大好きだ!

倦怠期なんて宇宙がひっくり返っても来ないから、どうぞご安心下さい」

「苦しいよ、クリフト」

「いつだって貴女に夢中なんです」

クリフトはアリーナの頬を両手で挟んだ。

「こんなにも人を好きになってしまった自分を、なんて浅はかなのだろうと恥じたこともありました。

でも、そうじゃない。わたしはなにより素晴らしいプレゼントを手に入れていた。

貴女がそこにいるということ。

自分以外の誰かを、こんなにもいとおしく思えるということ。

それがわたしが神から授かった、この世でたったひとつの至上の幸福なのだから」

「クリフト、待って」

アリーナの鼻先に、クリフトの唇が触れた。

「好きです、姫様」

「う、うん……でも」

アリーナは小さく叫んで身を縮めた。

「くすぐったいよ!」

「貴女の全部が好きだ。どうしようもないほど。

好きで、好きで、全てが貴女で埋めつくされて、自分が自分でなくなりそうなほど……」

教会の天井は高く、貴重なステンドグラスやフレスコ画を傷めないように、いつも空気は冷たく保たれている。

それでもその寒さを素敵だと思うのは、大好きな人の身体の温かさを、より強く感じることが出来るから。

窓の外に佇む銀幕のような冬空から、神の息吹きを乗せた白い雪がひとひら、またひとひら落ちる。

クリフトのなめらかな唇がアリーナの瞼に触れ、頬に触れ、額に触れてそのまま耳にくちづけた。

「愛しています、アリーナ様。

この命を懸けて。

どうか貴女の全てが、永遠にわたしだけのものでありますように」

「でも恋人達の間に、永遠なんてないんじゃなかったの?この本にはそう書かれていたわよ」

「ありますよ、ちゃんと。ここにね」

クリフトは微笑んで親指を立て、指先で自分の左胸をとんとんと叩いた。

「形ある永遠が決して存在しないのと同じく、形を持たない永遠は必ず存在する。

それに堅苦しい書物より、こうして触れ合って確かめる温もりにこそ、求めていた答えが示されることもあるのです。

だって、こう言うでしょう?

事実は小説より奇なり……って、ね」

クリフトが斜めに顔を傾けると、アリーナの腕から分厚い本が滑り落ち、鈍い音を立てて床で頁を広げた。

けれどふたりとももう、そちらを振り返ることはなかった。

呼吸する間も惜しいほど、何度も繰り返すキスが紡ぐ、終わりのない物語の螺旋。

愛し合う者にとって、時に沈黙はどんな言葉より雄弁で、幾千冊の書物を紐解くよりも、切なく胸打つ幸福だ。





―FIN―

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