まるで空に向かって腕を掲げるように、しなやかに伸びた枝先にひとつ、またひとつと薄紅色のつぼみがふくらみ初(そ)めてゆく。

この世のすべては変幻自在の絵画だ。流れる月日とともにくるくると、鮮やかに色を変える。

まだ見ていたい、もっとこの目に焼きつけたい。

名残惜しくそう思ううちに足早に季節はめぐり、またあらたな色彩が大地を豊かに彩る。

真新しい絵が、生まれる。

「もう、春なのね」

サントハイムの王女アリーナは、嬉しいような、不服なような、複雑な響きを声音に込めてつぶやいた。

「はい。もう春がやって来ます」

対照的に明るい声で答えたのは、傍らにたたずむ神官クリフトだった。お仕着せの萌黄色の法衣も、真冬のものではなく春秋用の薄地の織物に換えている。

沸かしたての紅茶をカップに注ごうと彼が動くたび、白い袖先から、裾から、教会で焚く白檀の香油の静謐な香りがふんわりと漂った。

「どうしてそんな顔をなさるのですか。春が来るのに、なにかご不満でも?」

ええ、おおありよ。

わたしはね、体を思いっきり動かせる春は大好き。甘い風の匂いもとっても好きだし、初々しい新芽が次々に土から顔を出すのを見るのも好き。

でも、春って暖かいんだもの。

寒さの厳しい冬の間、クリフトはいつもわたしにぴたりと寄り添ってくれていた。外を歩く時は人目もはばからずにわたしの腕を取り、毛皮の手袋を嵌めた手のひらをぎゅうっと重ね合わせてくれたものだった。

だけど、それはべたべたしたいからなのではないのだ。

常日頃から厚着を嫌がるわたしに、なんとか暖を取らせようとしているのだ。

真冬でも足を出した短衣しか身に着けないわたしに、お願いですからもっと暖かいご恰好をなさって下さい、お風邪を召したらどうなさるのですか、と困り果てて懇願するクリフトは、言うことを聞かないわたしをなんとかして温める最終手段として、自分が身を寄せることを選んだのだ。

その証拠に、ほおを撫でる風が柔らかく感じるようになってから、クリフトはわたしの手をつながなくなった。体を寄せるようにして歩くこともなくなった。

わたしの手をきつく握りしめながら、冬用の分厚い手袋を嵌めさせようとすることもなくなって(当たり前なんだけれども)、 

なんていうか、その、とにかく日常生活の中でなにげなく触れ合うことが、わたしたちすごく減ってしまった。

それもこれも、

「春のせいよ!春がいけないのよ」

「は……」

クリフトは目を白黒させた。

「な、なにがでしょう」

「わからないならいい」

アリーナはつんと肩をそびやかすと、白い湯気を上げる紅茶を勢いよく飲んで、瞳を見開いた。

「わぁ……、おいしい」

「でしょう?」

クリフトは顔をほころばせた。

「この春いちばんに咲いた、オンシジウムの花の蜜を混ぜました。オンシジウムは寒さに強いので、晩冬から早春にかけて咲くのです。

ご覧ください。花びらの形が少し変わっているでしょう。オンシジウムの花は蝶の姿に似ているので、バタフライオーキッドとも呼ばれます。

この繊細な美しさを姫様に楽しんで頂けないものかと、少しだけ摘んで来たのです」

見ると、琥珀色の紅茶の水面(みなも)に、目の覚めるような黄色の花びらがひとつ浮かんでいる。

つぼんだ唇部分から広がってゆく花びらの先はひらひらと隆起があり、まるで踊り子のスカートのようだ。

「とてもきれいな黄色をしているのね」

「春に咲く花は、黄色が多いと言われています。ハチなどの昆虫は黄色い花に誘われやすいのです。

今は生花商が掛け合わせ事業を始めて、王室に献上される花にはじつに様々な色のものが増えましたが」

「わたし、黄色は好きよ。太陽の光に似ているもの」

アリーナはぽつりとつぶやいた。

「……ありがとう、クリフト」

クリフトはにっこり笑った。

「よかった。姫様に喜んで頂けて」

その笑顔が本当に嬉しそうだったので、アリーナは胸の奥の大切な部分を前触れなくわしづかみされたような気持ちになった。

それから不意に、つまらないことで機嫌を損ねた自分がとても恥ずかしくなって、けれど急に態度を変えることもできず、ものも言わずに黙って紅茶を飲み干した。

(……もしかしたら)

今、この瞬間まで勘違いをしていたけれど、もしかしたら、人の愛情とは触れ合うことだけにあるのじゃないのかもしれないわ。

寒い季節に冷えた手のひらを懸命に重ねてくれることと、暖かい季節に美しい花びらを浮かべた心づくしの紅茶を淹れてくれることは、もしかしたら同じなのかもしれない。

ただ、わたしがそれに気づかなかっただけで。目を向けようとしなかっただけで。

クリフトの愛は、いつもこんなにもわたしを満たしていたんだ。まるで大地をあふれんばかりに覆い尽くす、一面の満開の花々のように。

「やっぱり、春って素敵な季節だわ」

クリフトは微笑んでうなずいた。

「わたしは春がとても好きですよ。心地よい風や陽光を感じるだけで、これからいいことがたくさん起きるような気がするのです。

それに、姫様が暖かい太陽の下で元気いっぱいに駆け回っておられるのを見るのが、わたしはいちばん好きなのです」

「だから、春になると手をつながないの?わたしがすぐに駆け出してしまうから」

「本当に自由な存在とは、何にも繋がれたりはしないものです。

そしてわたしは姫様に、いつも心から自由でいて頂きたいと思っていますよ」

「だ、だけど」

アリーナはもじもじとうつむきながら言った。

「もし……、もしもね、わたしが暖かい季節だって、もっとクリフトに触れてほしいと思っていたとしたら……」

クリフトはあっけにとられたような顔をし、さあっとほおを赤くした。

「そ、そ、それはもちろん……

ひ、姫様の仰せのままに」





それからまもなく、ふたりのいる部屋のカーテンが慌ただしく閉められてしまったので、その願いは叶えられたのか否か、誰ひとり知る由もない。

ただ、窓越しに差し込むまぶしい太陽の光と、空っぽのカップの底に横たわる黄色い花びらだけが、またひとつ新しく生まれた絵画の中に優しい色彩を落としていた。

春はそこにあるだけで愛の絵を描く。

愛はいつもそこにある。


それがクリフトとアリーナ、ふたりの出した答え。




―FIN―

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