誓いの命
白馬パトリシアの並々ならぬ奮闘の甲斐あって、その後正確に二時間を経て、導かれし一行は泉に辿り着いた。
肘にも辿り着かぬ浅さで、大人が横たわるほどもない大きさの泉は、およそオアシスとは呼べぬほどちっぽけなものだったが、岩の切れ目から湧き出す水は、確かな潤いを付近の土に与えている。
久しぶりに見る青々とした若草に、一日の疲れも見せない白馬は目を輝かせ、嬉しそうに鼻を鳴らして飛び付いた。
皆が思い思いに休息を取る中、馬の足元にしゃがみ込んで蹄鉄をひとつひとつ布で磨いてやっていた勇者の少年は、視線を感じて後ろを振り返った。
「……クリフトか。なんだ」
「勇者様、先程は大変失礼を致しました」
「失礼?何がだよ」
いぶかしげに眉をひそめると、膝を払って立ち上がり、こちらをじっと見つめる。
心の奥底まで射抜くするどいまなざしに、クリフトは不意に心臓をわし掴みにされたような気がし、動悸が早まるのを感じてうつむいた。
すべてを見透かす、人あらざる力……神の住まう天空の高き血をたたえた不思議な翡翠色の目。
どうしてだろう、いつもおかしいほど緊張してしまう。
さだめに選ばれて生まれて来た、世界の行く末の全てを担う弱冠17歳この少年は、自分がいかに美しいかということをちゃんと理解しているのだろうか。
「先ほどの諫言、身につまされました。お食事の度にあるじであるアリーナ様に、たくさんの水を差し上げてしまうのはわたしです」
クリフトは咳ばらいすると、申し訳なさそうに深々と頭を下げた。
「携行用の水が残り少ないことは重々承知していましたが、姫様がご所望とあってはつい。
後先も考えぬ愚かな振る舞い、反省しています」
「いいさ」
勇者の少年は白馬の足を大事そうに撫でてやると、先ほどの怒りをもう忘れたかのように、唇の片方だけを持ち上げて笑った。
「済んだことだ。オアシスについて、もう充分に水の補給も出来た。
ただ、あまり王女様をわがまま放題にさせるのはやめることだな。あの口うるさい爺様もそうだが、あんたらは敬うことと甘やかすことを履き違えてる。
あれじゃいくら腕がたつといっても、この環境での長旅は続かないぜ。
時には過ちを咎めたり、行いを正すよう厳しく言って聞かせるのも、愛する者への男としての大切な愛情ってものだろ」
クリフトはさっと頬を赤らめた。
「……お、お気づきでしたか」
「解りやすいからな、お前は」
「勇者様」
夕暮れの迫る橙色の空を見やり、心地よさげに目を細める少年を見て、クリフトは思わず口にしていた。
「それでは貴方様のようなお方も、わたしとおなじく恋をしたことがおありなのですか。
このわたしのように、報われぬ恋を。想っても想っても決して叶わぬ恋を」
どんなに願っても手に入れられぬ彼女の心さえ、風に舞い飛ぶ花びらのようにたわいもなく掴んでしまう彼も、もしも呪縛のような運命的な恋に落ちてしまうことがあるとすれば。
だが不躾な問いに帰って来たのは、凪の海のように静かな眼差しで、クリフトははっとすると跳びはねるように頭を下げた。
「も、申し訳ありません!身の程もわきまえず、まことに出過ぎた質問を」
「あるよ」
風に踊る木むらの葉擦れのように、どこか音楽的な声がさらりと答える。
勇者と呼ばれる少年は懐に手をごそごそと手をつっこむと何かを取り出し、ためらいもせずクリフトの前に広げてみせた。
おそらく最初は美しい乳白色だったはずのそれは、煤を塗り付けたように無惨な灰色に汚れ、所々に枯れ葉を散らしたように赤茶けた血の跡がこびりついた、皺だらけの小さな羽根帽子だった。