背中越しの明日
「薬草なんて飲まなくても、胃の腑の悪さくらい放っておけば治るじゃない。
どうしてミネアばかりそんなにも気にかけてあげるのか、解らないわ!」
「あの方は、ただでさえ体に血が足りないご性質なのです」
クリフトは言った。
突然のわたしの剣幕に、戸惑うような表情だった。
「なのに占術に力を使いすぎて、我等のために毎日易を視ては体調を崩している。
いつも無理をして、宿でもご気分が悪そうにしている所をよく見掛けます。
姫様もご存知の通り、明日からしばらくは、馬車を積んでの船旅となります。
身体の不調は、出来るだけ今のうちに治しておいてこそ、海の上でも……」
「だから何よ!」
静寂を破る甲高い叫びに、クリフトはぴたりと口をつぐんだ。
「一体お前はミネア専門の、典薬医かなにかだとでも言うの?
いいわ、そうやって好きなだけ、可愛いミネアにべたべたとくっついていればいい。
薬草でもなんでも、徹夜で煎じてあげればいいじゃない。さぞかしすぐに具合がよくなる事でしょうね。
さあ、部屋に帰りなさい。夜明けまで時間がないわよ。早く出て行って!」
クリフトは黙ってわたしを見つめていた。
だが顔を背けたわたしには、その表情を伺い知る事は出来なかった。
喉が狭まり、苦い後悔が込み上げたけれど、放たれた言葉を取り消すすべも持たず、唇を噛み締めてうつむいていると、衣擦れの音がしてクリフトが動く気配がした。
(行ってしまう)
(謝らなくちゃ……早く、ごめんなさいって)
(今謝らなきゃわたし、取り返しのつかない大切なものを、失ってしまう)
だが彼は、この場を立ち去ろうとしたのではなかった。
猫のように柔らかな仕草で、わたしを抱きよせて寝台の奥へそっと動かすと、空いた場所に自分の身体を滑り込ませ、傍らに横たわる。
広い胸に包まれながら、茫然と見上げるわたしの頬にくちづけて、クリフトはにっこりと微笑んだ。
温かな笑顔だった。
「じゃあ、少しだけ」
まるで赤子をあやすようにわたしの背を撫でながら、歌うように言う。
「このままいると、朝までこうして、姫様の隣で眠ってしまいたくなるから。
あともう少しお側にいさせて頂いて、それから退散する事に致しましょう」
「……ごめんなさい」
涙が混じった呟きは、その時、ちゃんとクリフトの耳に届いたのだろうか。
彼はなにも言わず、ただわたしを優しく抱きしめていた。
身体中に満ちるクリフトの温もりと、漂う甘い白檀の香り。
どんなに偉そうに命令してみせたって、頭ごなしに叫び声をあげたって、結局わたしはクリフトの前ではいつも、取るにたらないただの甘えた子供でしかないのだ。
「……の」
「え?」
「どうして、そんなに優しいの。わたしには出来ない。
どうしていつも、そんなに誰にでも優しくいられるの」
クリフトは言葉の意味を図りかねるように、しばらくわたしを見つめていたが、やがて小さく肩をすくめた。
「姫様には、わたしはそう見えるのですか」
「ええ。お前みたいに親切で気配りの権化のような人間は、生まれて他に見たことがないくらいに」
「なんだか、悪意ある響きだな」
クリフトは眉根を寄せた。
「生きとし生けるもの全てに対し、変わりなき愛を持って接すること。
神に仕える身としては、それは最も目指すべき道ではありますが、残念ながらわたしはまだまだ煩悩多き、ちっぽけでわがままな人間です。
だから」
ぎし、と寝台のばねが軋んだ音を立てる。
不意にクリフトは体を起こして、わたしの上に覆い被さった。
指と指が絡み合い、唇が重なる。
クリフトの前髪が瞼を滑る。
「……っ」
まるで足りない何かを埋めようとする、貪るような突然の熱いキスに、わたしは驚いて身を反らせた。
「ね」
長い口づけのあと、クリフトはようやく唇を離し、息を切らせてわたしを見た。
蒼い目の中には、頬を上気させて瞳を潤ませたわたしが映っている。
「誰にでも優しくなんて、出来ない」
苦しげなほど掠れた声が、耳元で囁く。
「貴方にだけは乱暴で意地悪で、どうしようもなく自分勝手になってしまう。
それでも許して欲しい。そんなわたしを、貴方だけは。
姫様……わたしの、誰よりも愛しくて手に負えない、アリーナ様」
結局、クリフトはその夜のうちに薬を煎じる事は出来なかった。
いいのと尋ねると、照れ臭そうに笑いながら、実はもう、昨日のうちに作っておいたものがあるんですと言った。
ただ、作りたての薬効の強いものを、身体の弱いあの方に飲ませてあげたかったのだと。
きっとわたしはこれからも、そんなクリフトの分け隔てない優しさに、嫉妬したり愛おしんだり、嵐のように心を揺さぶられ続けて行くだろう。
背中で彼を振り切って、駆け出してしまわねばならぬほど、喧嘩してしまうことだってあるのかもしれない。
でもそんなわたしにも、ちゃんと解った事がある。
わたしは、守られている。
いつも背中越しに。
雨が降り雲が空を覆い、陽光がその姿を隠してしまった時だって、
蒼い眼差しはいつも後ろからわたしを見守り、支え、変わらぬ強さでわたしを愛し続けている。
そしてわたしが前へと歩いて行く限り、背中越しの彼の明日にわたしの存在はきっと、終わる事なくあり続ける。
「そうだ」
部屋を出て行く時、扉のすきまから顔だけ出して、クリフトはこちらに悪戯っぽくウインクした。
「姫様は今夜、実にお上手にお声を我慢されました。
これなら今度から、壁が薄い部屋でも安心ですね」
「なっ……、馬鹿!」
わたしは顔を真っ赤にして、クリフトに向かって枕を思いきり投げ付けた。
楽しげな低い笑い声と広い背中が、扉の向こう側に消えて行く。
もうすぐ夜が明ける。
朝が来る。
また、彼がわたしの背中を見つめるための、真新しい朝がやって来る。
-FIN-