背中越しの明日
トン、トンというくぐもった、深夜のひそやかなノックの音。
寝台に横たわったまま返事をせずにいると、扉が開いて、静かにクリフトが入って来た。
ゆったりした就寝用の長衣を纏っている姿は、いつもより少し痩せてみえる。
わたしが眠っていると思ったのだろう、近付いて来ようとせずに壁に吊られた燭台の火を確かめると、脇にある椅子に腰掛け、手にしていた聖書を開いて熱心に目を落とし始めた。
オレンジ色のほの暗い光に照らされたクリフトの横顔を、わたしはそっと覗き見た。
(綺麗だわ)
瞳の蒼さが透けそうな瞼は薄く、瞬きのたびに長い睫毛が、旅の間で日に焼けた肌を撫でる。
(つやつやした髪も目も、絵から抜け出て来たみたいにとても綺麗。
背も高いし、手も足もまるで樫の樹みたいにしなやかで長いわ。
ミネアが好きになるのも、解る……こんなに綺麗な男の人、あいつを除いてはなかなかいないもの。
でも天空の血を引いた、あいつは特別だから。
……いっそ)
ミネアが自分の大切なクリフトではなく、神から遣わされたあの美貌の少年を、好きになってくれればよかったのに。
あの数時間後、回復したミネアが必死に謝るのに、ぎこちない笑顔を返しながら、何故かどうしようもなく惨めな気持ちに包まれるのを、わたしは抑えることが出来なかった。
クリフトはきっと、針の先ほどの罪悪感も抱いていないだろう。すれ違う時の微笑みが、全て証明している。
彼にとって人を助けるということは、神の御心に従うことであり、そこに対象が異性であるとか、恋人の前だからというためらいは、存在しないのだ。
気が優しくて、いつも仲間達にやり込められてはおろおろとする彼が、まるで神そのもののように、ふっと迷いのない眼差しを浮かべる瞬間。
そんな彼を愛して、愛されているという誇りが、なによりわたしを強くしていたはずなのに。
(前ばかり見ている、自分本位なわたしの後ろで、ミネアはいつもひたむきに、クリフトの背中を見つめていたのかもしれない)
(そしてクリフトもそれを気遣うように時折振り返っては、笑顔を向けていたのかもしれない)
(何も知らないのは、わたしだけ……自分勝手でわがままな、わたしだけ)
「クリフト」
胸を侵食する痛みに耐え切れず、わたしはついに彼の名を呼んだ。
クリフトは顔を上げ、急に文字から引き離した目を慣らすように、じっとわたしを見つめた。
やがて輪郭をはっきりと捉える事が出来たのだろう、目顔で柔らかな微笑みを浮かべる。
わたしの大好きな、怒りも哀しみも全て溶かしてしまう、光を透かす花びらのような澄んだ笑顔。
「起こしてしまいましたか」
「喉が渇いたの」
クリフトは書物を閉じると立ち上がり、部屋の隅のテーブルに置かれた銀の水差しから、よく冷えた水を杯に注いで運んで来た。
わたしは身体を起こし、黙っておとがいをあげる。
「飲ませて」
クリフトは頷いて、ごく自然な動作で寝台の側に膝まづいた。
指でわたしの髪をかきあげて耳にかけ、唇に銀杯をあてがうと、こぼさぬよう顎を支え、注意深く水を飲ませてくれる。
喉を滑り落ちる香しい冷たさが、胸の痛みを更に乱暴に押し出す。
なんて愚かなのだろう。
居丈高に振る舞い、おとなしく従うクリフトを見る事で、わたしは彼の愛情の深さを確かめようとしている。
「足りないわ」
もどかしい苛立ちに襲われて、わたしはクリフトの身体をつかんだ。
細かなレリーフが浮き出された、銀色の杯が床に音を立てて転がる。
「姫様?」
強引に引き寄せて唇を重ねると、クリフトは驚いたように一瞬身を引きかけたが、目と目が合うとすぐに腕を回し、安心させるようにわたしを抱きしめた。
「どうしたんです。怖い夢でもご覧になったのですか」
「そんなんじゃない」
不意に泣き出したいような思いにとらわれ、わたしはクリフトの鎖骨に顔を埋めた。
「ただ、お前が好きだと思っただけよ。
このままずっと離れたくないと、思っただけ」
「わたしは姫様から、いつだって離れたり致しません」
嘘だ。
彼が神へと深い祈りを捧げる時、心は翼を開いて現実から遠く離れ、
時の向こうのあえかな光に包まれた世界に、全てを忘れて跳んでいくのを、幼い時からわたしはよく知っている。
クリフトは、決してわたしだけのものにはならない。
生まれながらに神に捉われた彼の心を、わたしが独り占めすることなんて、決して出来ないことなのだ。
「クリフト」
わたしは唇を、クリフトの胸元に押し付けた。
「ね……、今から」
「駄目」
クリフトは微笑んで、優しくわたしの身体を押し戻した。
「どうして?」
「今夜は、ちゃんとお眠りかどうかを確かめに来ただけです。
この宿屋は、とても壁が薄いですから」
「かまわないわ。絶対に声を立てないようにする。だから」
「わたしの愛しい方は、今夜は一体どうなさったというのでしょう」
クリフトは不思議そうにわたしを覗き込むと、髪を撫でて額に口づけた。
「姫様がそんな事をおっしゃるなんて、とても珍しい。
もっと別の場所でなら、一万回でもお願いされてみたいお言葉ですけれど」
「じゃあ、何もしなくていいから、朝までここで一緒に寝て。それでいいわ」
「それも駄目。今夜は日が昇る前に、薬草を煎じておかねばなりません」
「ミネアにあげるためなのね」
声が尖るのが自分でも解ったが、その時のわたしには、もう怒りを止める事は出来なかった。