背中越しの明日
クリフトはいつも、わたしの後ろに立っている。
それはもうずいぶん昔から、朝陽が昇るのと同じように変わらない習慣で、今ではそうじゃないと落ち着かないくらい、ふたりの間では当たり前の約束のようなものだ。
だからごくたまに、疲れたように木陰に佇む彼の後ろ姿や、戦いのさなか、わたしを庇おうと素早く前に回り込む、広い背中を間近に見てしまったりする時、
わたしは自分でも驚くほど動揺し、心臓が脈打つのを必死に抑えようと努力する。
男の人の背中って、まるでカードゲームのジョーカーみたいに、有無を言わせず勝負を決める特権を持っていて、
なんだかすごくずるい。
例えば月明かりの下で、彼のしなやかな腕に抱きしめられている時だってそうだ。
伏し目がちな瞳が頬に落とす影や、口下手な彼が抱き合う時だけ口にする不器用な愛の言葉よりも、
まだ火照った身体を離して起き上がり、額の汗を拭いながら、こちらに向ける無防備な裸の背中に、
わたしはまるで、強いまたたびを目の前に差し出された猫みたいな、身体の奥がむずむずするほどの強烈な衝動を覚え、いてもたってもいられなくなってしまう。
これって、一体どういうことなのだろう?
クリフトの背中が、わたしに何をもたらしているのか、その何がこんなにもわたしの心を、痛みすら感じるほど引っ掻くのか、
知りたいけど、いつものようにわたしの後ろに真摯に控える彼を振り返って、
「ねえ、お前の背中が好きなの。
ちゃんと見てみたいから、今日はわたしの前にいて」
なんて、とても言えない。
「コンプレックスがあるんじゃないの。
強い自分を演じながら、実はもっと強い存在の何かに頼りたい。征服されていたい」
宿屋の革張りのソファに自堕落に寝そべって、マーニャは片手で葡萄酒の瓶から杯に注ぎながら、気怠げに言った。
「例えばアリーナちゃん、あんたみたいな勝ち気で鼻っ柱の強い娘ほど、
いざベッドの中に入っちゃえば従順で、男にぐうの音も出ないほど、欲しいままにされちゃう。
逆に、クリフトみたいな馬鹿がつく生真面目で自制心の強い男ほど、一旦抑制を取り払っちゃえば、手に負えない貪欲で野性的な狼に変身しちゃうって訳。
それはそれで釣り合いが取れてるんだから、べつにいいんじゃないかしら」
「勝手に決めつけないで」
わたしは顔を赤らめて言い返した。
「見たわけでもないくせに、失礼だわ」
「あら、心当たりがないとは言わせないわよ」
マーニャはにんまりと笑って、後方を振り返った。
「ねえミネア、あんたもそう思うでしょ。
クリフト、あいつは実はとんでもない助平男なはずなのよ。
知ってる?あの男、舞台で踊ってるあたしを絶対に見ようとしないの。
そんなふうに清廉を気取ってる奴ほど、心の中にどろどろしたいやらしーいものを、山ほどため込んでるんだから。
他の男どもみたいに、ぽかんと見とれてくれるほうが、まだ可愛いげがあるわよ。
いつもいつも口を開けば朝から晩まで姫様、姫様って、全くもう、聞いてて苛々するったら、あーーーん!!」
マーニャは空になった杯を放り投げてソファに突っ伏し、両足をばたばたさせた。
「悔しーーい!
どうしてあたしには、そんなに一途に想ってくれるいい男が現れないのお!!
アリーナちゃんみたいな暴れ馬がどうしてこんなに愛されて、あたしは、あたしにはぁ」
「暴れ馬……」
「ご、ごめんなさいね!」
慌てて駆け寄って来たミネアが、マーニャの口をむんずと押さえ付ける。
「姉さん、酔ってるのよ。
明日になればすっかり忘れちゃってるから、どうか気になさらないで」
「なあにいい子ぶってんのよ、ミネア!」
マーニャは乱暴に手を振り払うと、とろんと据わった目でミネアを睨みつけた。
「あんたこそ、一番アリーナちゃんに嫉妬してる張本人のくせに。
いつもクリフトの背中を、熱ーい目でじっと追いかけてるの、あたしは知ってるんだからね!
あの大馬鹿鈍感男は、多分少しも気づいちゃいやしないけど、あんなふうに想いを込めて見つめてたら、誰だっていつか感じるわ。
あ、今誰かに自分は想われてるって。
そうなった時あの朴念仁が、アリーナちゃんとミネアの間に挟まれて、一体どんな反応をするのか、さぞかし見物よね!」
わたしは真っ赤になったミネアが、騒ぐマーニャを無理矢理抱え、部屋を出て行くのを黙って見つめていた。
驚いた訳じゃなかった。
女は、自分以外の誰かが恋する人を捉える視線に、いつだってすごく敏感だ。
(背中をじっと見てる……か)
わたしはまだ、クリフトの背中を後ろから見つめたことなんてない。
(ひょっとしたらわたし、いつもクリフトの前に立っていることで、今まで見逃して来てしまったものが、たくさんあるんじゃないだろうか)
「大丈夫ですか」
その時声が聞こえて、わたしは何気なく廊下に出た。
そして目を見開いた。
床にうずくまり胸を押さえるミネアに、クリフトが心配げに寄り添って、肩を貸していた。
「ご、ごめんなさい……、姉さんのお酒の匂いで、急に気分が悪くなってしまって。
飲んでる時は、気をつけて近寄らないようにしていたんだけれど」
「解ります。わたしもお酒は、どうにも苦手ですから」
クリフトは穏やかに言った。
「さあ、部屋に戻りましょう。少し横になった方がいい。
後で乾燥ノゲシの粉をお持ちします。飲めば、随分と楽になりますよ」
「ありがとう、クリフトさん」
青ざめた顔を和らげて礼を述べたミネアは、目の前に立ち尽くすわたしに気付いて、はっとした。
「あ……、あの、これは」
「行きましょう」
クリフトはミネアの体を支えたまま、わたしに向かって優しく微笑みかけると、足を止めずに、そのままわたしの前を通り過ぎた。
わたしはその場を、動けなかった。