甘いもの
「ち、ちょっと……クリフト、やめなさい!」
「いやだ」
我儘な子供のように首を振って、クリフトはわたしの耳に唇を押し当てた。
かぐわしい熱い息が被さり、突然訪れる甘いめまいに鼓膜が震える。
「朝からずっと、こうしたかったのです」
クリフトは言った。
「つまらない聖書なんて読んでいないで、こうやって一日中、貴方と抱き合っていたい」
「……聖職者のくせに、罰が当たるわよ」
「構いません。貴方を愛することに比べたら、この世の全てはつまらない」
クリフトはわたしの顔を覗き込んで、意地悪そうに笑った。
「そうはおっしゃいますが、アリーナ様のほうこそ」
「な、何よ」
「さきほどの勉強中、昨夜のことを思い出しておられたのでしょう」
「え?」
「ひとりで、お顔を真っ赤になさって」
「……なっ、そ、そんなこと……」
「思い出したりなんて、しなくていいのですよ。そうじゃなくて」
見つめる蒼い目が不意にせつなそうに細められ、クリフトは言葉を途切れさせた。
彼がこんな表情を浮かべるのはどういう時なのか、わたしはもうとっくに覚えている。
だから瞼を閉じると、やがて雨音と共に優しい唇が下りて来て、わたしの唇にそっと重ねられた。
(甘い)
声にならない声で、わたしは呟く。
(まるでお砂糖をたくさんかけた、甘い甘い飴菓子になったみたい。
クリフトじゃない。わたしだわ。
わたしが、彼の甘いものにされてるんだわ)
「……もっと、わたしを欲しがって下さい。姫様」
息が切れるほどキスを繰り返した後で、どこかが痛むように苦しげにクリフトが言った。
「わたしはいつだって、寝ても醒めても貴方様を愛したいのに。
こんなわたしはお嫌ですか。朝も夜も貴方を想っては、頭がおかしくなりそうなほど欲しくなるのを抑えられない、わたしは」
「クリフト……」
窓の外の雨は銀色の矢となり、大地を射るように激しく降り続けている。
息が混じるほど近くに顔を寄せ合いながら、わたしたちは黙ってまた唇を重ねた。
伝えたい想いは溢れ出しそうなほどあるのに、早鐘のような心臓の音が言葉を遮り、感情は上手く紡ぎ出されず、胸の中で次々と弾けて消えてしまう。
「……ね、クリフト」
つたえるために残された方法はたったひとつしか見つからず、わたしはクリフトの首に腕を回しながら、甘いため息と共に囁いた。
「なんでしょうか」
「……あのね、ここで」
「……やれやれ、馬車にしまい込んでおいたら、無知なトルネコめが不用品と間違えおって。
危うく貴重な魔法書が、どこぞの蚤の市で売り飛ばされてしまうところじゃったわい。
姫、遅くなりましたが始めますぞ」
ギイと古めかしい音をたてて、年季の入った扉が何の前触れもなく開かれる。
まるで枕ほども大きな辞典を両手で抱えて、ブライは大儀そうに部屋に入って来ると、普段は鋭い目をぱちくりと見開いた。
「なんじゃ、クリフト。おぬしもまだおったのか」
「は」
クリフトは頭を下げ、ブライの手から巨大な書物を受け取ると落ち着き払って言った。
「思ったより、わたしもアリーナ様も勉学に熱が入りまして。つい長引いてしまいました」
「ふうむ、姫が勉学に……、珍しいの。
しかしサントハイムの王女たるもの、たとえ旅の上であっても、学びの時間は常に大事にしなくてはならぬ。実によい事じゃ。さぞかし魔法学の講義も進むことであろうな。
今日は実技も兼ねようと魔法書を……、姫、アリーナ姫?
なんじゃ……寝ておるのか」
……好きなものは、甘いもの。
だと思ってたけれど、どうやら違った。
柔らくて切ない、黄金色の蜜を溶かしたような、舌もとろける極上の味わい。
愛のクリームを身体じゅうに秘めた、わたしが彼の甘いもの。
身体が沈み込んで行くような満ち足りた眠気の中で、夢うつつにクリフトの真面目くさった呟きが聞こえた気がした。
「ブライ様、残念ながら今宵は講義はもう必要ないかもしれません。
どうやら姫様にはすでに、決して溶けない魔法がかけられているようですよ」
-FIN-