甘いもの
好きなものは、甘いもの。
例えば砂糖をたっぷりと入れて、日が暮れるまで煮詰めた木苺のジャムとか、朝一番に咲いた薔薇の花びらを浮かべて飲む、とっておきのはちみつ入り紅茶とか、
取れたての卵を雪みたいに泡立てて時間をかけ焼き上けた、ふわふわのスポンジケーキとか。
でも本当に甘いものはそんなふうに、舌の上に後味だけ残して溶けて消えてしまうものなんかじゃないってことを、
もうわたしは知ってる。
(愛してる、アリーナ様)
薄闇の中で、熱をたたえて揺れるサファイア色の目と、普段の穏やかな佇まいからは想像もつかぬほどセクシーな、低くかすれた囁き声。
わたしの肩を柔らかく押さえ付ける、若木のようにしなやかで逞しい腕に、こめかみから頬に落ちた長い前髪を伝って、何度もしたたり落ちる熱い汗。
まるで渇いた者が飲み水を求めるように、何度も何度も身体全部で欲しくなるその感覚は、熱帯のさとうきびみたいに痺れるほど甘く、
やみつきになる。
だから今日も明日も明後日も、今すぐにだって、わたしは彼の腕の中でとびきりの蜜を求めて自分勝手に空を舞う、考え無しな蝶になる。
「……その時、聖ラシネは告げました。汝の敵をこそ、汝の内なる自分だと理解せよ。
それを知ることでまた汝の……、姫様。アリーナ様」
「……へっ」
「へっ、ではありません」
ため息と共にもれる、もの柔らかで落ち着いた少しハスキーな声。
「また居眠りですか?今日という今日は、この章を全て読み終えるまで、部屋にはお帰し致しませんよ」
(……誰のせいで、毎晩寝不足だと思ってるのよ)
「何かおっしゃいましたか、姫様」
「いいえ、何も!」
「なら、よろしい」
クリフトは首を軽く傾け、にっこり微笑んだ。
(二重人格って、きっとこういうことを言うんだわ)
わたしはこっそりとひとりごちた。
聖書を滔々と読み上げる目の前の神官の優しげな笑顔はいかにも清潔で、昨夜の出来事を想起させるような、艶な含みはみじんも感じられない。
なにげないアーチを描くあの唇が、夕べわたしにどんなことを囁き、どんなふうに触れたのか。
思い出すだけで、身体中の血が沸騰寸前まで熱くなり、頬めがけて一気に集まってくる。
昼と夜の顔を使い分けてはわたしを翻弄する、甘くて苦いとろりと発酵した果実酒のような彼。
「今日は雨ですし、丸一日宿に足止めです」
わたしの思惑など気付かず、クリフトは真面目な口調で言った。
「旅に出てからというもの、随分と勉学が疎かになってしまわれました。これを機にアリーナ様には、しっかりと勉強していただかなくてはなりません。
のちほどブライ様も、魔法学の理論をご教授下さると言うことでしたよ」
「ええ?」
わたしは叫んだ。
「わたしに魔法学なんか教えて一体どうするつもりなのよ、あの偏屈爺は」
「……アリーナ様」
「だって、そうじゃないの。それはウサギに空を跳ぶ方法を、懸命に説いているようなものよ。
わたしに魔法は使えない。人には向き不向きってものがあるわ。
それならその時間を使って組み手をしたり、足腰を鍛える為の鍛練を積んだほうが、どれほどこれからの戦いの役に立つかしれない。クリフトだって、そう思うでしょ」
「まあ、確かに」
クリフトは渋々認めた。
「魔法を使いこなす資質とは、非常に先天的な要素が強いものです。
教典で組成の理を学んだからと言って、なかなか実際の魔力が身につくとは」
「しかもブライの授業はたいてい途中から、鼻持ちならない自慢話に変わるのよ。
いかに自分がたやすく氷の魔法を会得し、サントハイム随一の魔法使いとして、長くこの国に君臨して来たか。
どれだけたくさんの女性が、そんなブライに熱を上げては城に押しかけて来たか。
仕立て屋の娘ラフィア、尼僧のエーディテ、機織りのマリル……もう名前まで覚えちゃったわよ」
「ブライ様は真実、サントハイムが誇る屈指の魔法使いでいらっしゃいます」
クリフトは苦笑いを浮かべると、肩をすくめて聖書を閉じた。