夜半の月哉
「月とは、わたしたちが住むこの星のおよそ四分の一の大きさ」
クリフトは静かに語り始めた。
「熱い黒岩と冷たい白岩のふたつで出来ていて、表面にはクレーターと呼ばれる、たくさんの隕石衝突跡があります。
あんなにも美しいのに、銀河をひとり自由に舞うことを良しとせず、まるで母親に懐いて離れない子供のように絶対的にこの星に対となって存在する。
古来より、なぜ月は常にこの星の傍らにあるのかと、科学者の間で大変奇妙に思われてきました。
長き研究によってその疑問を解き明かしたのが、ジャイアント・インパクト説。
つまり月とは、この星に起きた巨大衝突によって発生した岩石より生まれたものなのだと」
クリフトはアリーナのあっけに取られた顔を見て、言葉の選択を間違えたことに気づき、しばらく考えてから言いなおした。
「大昔、この星に別の星がうっかりぶつかってしまいました」
「うん」
「そのせいでこの星の一部は岩となって弾き飛ばされ、それが銀河でまた他の星とぶつかり、くっついたり離れたりを繰り返して、やがてだんだん大きくなりました」
「へえ」
「それが月の正体である、という説です。つまり月とは、もともとこの星がちぎれたかけらなのですよ」
「ええっ!!」
アリーナは愕然とした。
「じゃあ、月とこの星は、本当はひとつだったっていうことなの?!」
「はい。ついでに言いますと、まん丸でもありません。大きな星には、小さな星を引っ張り寄せる力があります。
月は始終この星に引っ張られていて、そのせいでほんの少し楕円形に伸びてしまっているんですよ」
「……」
アリーナは言葉を失ってクリフトを見つめていたが、やがてくすくすと笑い始めた。
「なーんだ。じゃあわたし、この星に住んでいるのにこの星を怖がっていたようなものなのね。
小さな子供が鏡に映った自分を見て、怖がるみたいに」
「無論、証明できない以上はあくまで仮説でしかありませんが……ジャイアント・インパクト説を理解すると、この星にぴたりと寄り添う月の不思議の全てが理解できるのです」
クリフトは人差し指を立てて、自分の胸をそっと押した。
「誰だって自分自身とは、離れたくなんかないでしょう?」
「でも、月はきっとわかっているはずよ。どんなにくっついて回っても、べつべつのものは決して元通りひとつにはなれないって」
アリーナはそっとクリフトの手を取り、指先を自分の方向に向けた。
「なのに、傍に居ずにはいられない……どうしてかしら」
「どうしようもなく引かれるからでしょう」
クリフトはほおを赤らめ、一瞬ためらってから少女の手を握った。
「真円が形を変えるほど抗いがたい力で、苦しいほど引かれて、惹かれて……、
寄り添えなくとも、離れることは出来ない。そこに言葉に出来る理由など、もう存在しないのです」
「だから、永遠にくっつくことはないと解っていても、周りをぐるぐるするの?」
「はい、永遠に。その軌道が重なる日など決して来ないと知っていても、
わたしはただ貴女の……いえ、月はこの星の傍らを」
「でも、だとしてもいつか向かうのよね。わたしたちのたましいは、近くて遠いあの月へ」
アリーナは透明な声で呟いた。
「限りある命を終えて、いつか向かうんだわ。わたしたちそこへ必ず。
だとしたらわたし、この心を月に取られちゃう前に、生きているうちに欲しいものをすべて掴んでみせる。
強い想いは星さえ動かすのよ。だったらわたしには出来るわ、きっと。そしてお前にもね。クリフト」
星よりも強く輝く光を放つのは、どうやら満月だけではないらしい。
離したくない、と思うのが怖くて、そうなる前にクリフトはアリーナの手をそっとほどいた。
「……めぐり逢ひて 見しやそれともわかぬ間に
雲隠れにし 夜半の月かな」
「え?」
「古代の歌ですよ。もうとうに滅びた、東の日出づる国より伝わるという」
クリフトは空を見上げた。
「先日、街のよろず屋で偶然書物を見つけて、勇者様とふたりで詠んだのです。
どうしても届かない想いに囚われた時は、この歌を口ずさんで心を慰めようと、冗談を交わしながら」
「ふうん……どういう意味の歌なの?」
「ようやく巡り逢えたのに、それと解らぬほどあっというまに、あの人はいなくなってしまった。
まるで、雲間に隠れてしまう夜半の月のように」
「わたし、ちゃんといるわ。こうしてお前のそばに」
「いつかそうせねばならぬ時が来るでしょう。旅が終わればわたしたちは離れなければならない。
たとえそばにいても、永遠に交わることはないのです。この星と月のように」
クリフトは寂しそうに微笑んだ。
「ですが姿を隠しても、雲の波間を月はいつまでも巡り続ける。
愛することをやめられない、ひとつでありたいという、どうしても手離せない永遠の想いを探して。
……さあ、そろそろ帰りましょうか、姫様。あまり遅くなると、皆さんに叱られてしまいます」
「わたし、お腹すいちゃったな」
「では夜食をこしらえましょうね」
「目玉焼きにして!黄身が大きくて、丸ーいやつね」
「目玉焼きですか?朝食でも召し上がったのに、何故また」
「な、なんとなくよ、なんとなく」
「では、勇者様の分も作りましょうか。相変わらず夕食を殆ど残しておられましたから」
「でもあいつ、確かもう寝てたわよ。みんなと離れて独りで木にもたれて」
「寝ていませんよ。あの方も今頃きっと、この月を見上げてはいとしい人を想っている。
ああ見えて、誰よりも淋しがり屋で愛情豊かな方なんですから」
「そうなの?そうは見えないけど…………、あ」
「どうなさいましたか」
「今どこからか、聞こえたような気がしたの。
……小さなくしゃみが」
巡り逢ひて見しやそれとも解ぬ間に
雲隠れにし夜半の月哉
金色の光が雲に沈む。
月が見えなくなる。
繰り返し離しては重ねた掌が、名残惜しげにほどけ、言葉もいつしか途切れた頃、並んだふたりの眼前に焚火の赤い炎と、それを囲むいくつもの背中が見え始めた。
―FIN―