夜半の月哉
「呆れた。なあにー、あれ。あてられちゃう」
ふたりが遠ざかって行くのを見届けると、マーニャが不機嫌そうに口をとがらせた。
「見た?クリフトのあの堂々とした態度。きっとほんとに月が好きで、ただ月明かりの下を歩きたいだけなのね。
アリーナちゃんを大好きな人だって強く意識してる時は、散歩どころか話しかけることすらろくに出来ないくせに。
あの男の中には恋に度を失うクリフトと、穏やかで理知的な大人のクリフト、ふたつの人格が住んでるんだわ」
「誰でもそういうものでしょう」
ミネアは微笑んだ。
「恋をすると皆、知らなかった自分に出会うものよ」
「そうなの?誰でもってじゃあ、もしかしてあいつも?」
マーニャは顎をしゃくって、少し離れた木陰に寝そべっている勇者の少年を指し示した。
「あの無愛想で生意気なあいつも恋すると、もうひとつの人格を持っちゃうわけ?
あの冷血漢も好きな子に甘えたり、可愛らしく拗ねたりするわけ?
げえー、気持悪ーい。そんなの百万ゴールド貰えるって言われても、絶対に見たくないわね!」
「っくし!」
勇者の少年は突然くしゃみをすると、不思議そうにあたりを見回した。
「……風邪でも引いたか。寒くねえのに」
ふと目をやると、焚火の周りに並んだ背中の数がふたつ減っている。
「ふん。羨ましいね。姫御前と従者様は始終べったりで」
少年は面白くなさそうに呟いて空を見上げ、ふと左胸の懐に手をやった。
中に押し込めているくたびれた羽根帽子にそっと触れ、何かの存在を確かめるようにしばらく握りしめると、もう一度視線を空に上げる。
月が注ぐ鎮静の光。
それを護るように雲間に沈んでは浮かぶ、星々の海。
無数の偏光と恒光のはざまに浮かび上がる、形を失くした愛しい面影と、もう聞けないあの声。
(ねえ、覚えておいて。さよならがあっても必ずまた会える。
お星さまの海に帰ったら、そこでは誰もがみんな一緒なの)
もう聞けなくなってずいぶん経つ、舌っ足らずな優しい声音。
(信じて。わたしたちはずうっといっしょだよ)
(だから寂しくない。貴方は、独りじゃない)
「……なあ、お前もひとりじゃないんだよな。父さんも母さんもみんな、一緒にいてくれるんだよな。寂しがってたりしてないよな。
仲良くやってるんだよな、そこで。みんなと……」
会いたい
シンシア
暗がりにひっそりと落ちた、誰にも聞こえない囁き。
勇者の少年は頭の後ろで腕を組むと、目を閉じて再び静寂に身を沈めた。
「雲隠れにし、夜半の月哉……か」
白い夜香花が開く茂みで、焚火の赤い炎の影が揺れた。
「ねえ、不思議だと思わない?月ってどこまで行っても付いてくるのよ」
森の縁を沿るなだらかな丘陵を並んで歩きながら、アリーナは弾んだ声を上げた。
思いがけず訪れた、机の下で偶然見つけた宝物のようなふたりの時間。
「今は綺麗だなって思うけれど、本当は小さい頃、お月さまのことが怖かったわ」
「なぜですか?」
「だって、月って見るたびに色が違うじゃない。赤だったり金だったり、銀だったり。
形も満ちたり欠けたり、丸かったものがだんだん小さくなっていくのが、なんだか恐ろしかった」
「月が満ち欠けするのは、人の子の命が旅を終え、最後に辿り着く場所だからと言われています」
クリフトは微笑んで言った。
「今生の生を終えた魂がついの安らぎを得、それまでの悲しみや苦しみ、すべての想いから解放されるため、月がそれらを受け止めて、代わりに泣いたり怒ったりしてあげるのだと」
「そうなの?じゃあわたしたちもいつか、この世での役目を終えたら月に行くのかしら」
アリーナは首を傾げた。
「天国って空の上にあると思っていたけど、違うのね。
でも考えてみたら、あの天空城も天国では決してなかったし、わたしたちの魂は身体を離れた後、ずいぶん遠い所へ行くことになるのね」
「月は遠いけれど、遠くはないんですよ。元々ひとつだったのですから」
クリフトは手を差し伸べて、空に浮かぶ金色の真円を仰いだ。
「天文学の世界では、月の存在についてジャイアント・インパクト……巨大衝突、という説があります。
古代の科学者たちが、天体の研究に血道を注いでようやく解った、月の生まれ方」
「月の生まれ方?」
アリーナは瞬きした。
「お月さまがあの空で、どうやって出来たかってこと?」
「はい」
クリフトは優しい目でアリーナを見た。
「知りたいですか?姫様」
「うん!月は、当たり前にあるものだと思っていたもの。生まれ方なんて知らないわ」
「では、お話しましょうか」
笛の音のような柔らかな声音が、夜風に乗って流れる。
アリーナは遠い昔語りを聞いているような心地で、クリフトの蒼い瞳をじっと覗いた。