命の歌



クリフトとわたしが、ふたりの血を継ぐ小さな命を授かったと宮廷医師から伝えられて、もう十月。

驚きも戸惑いもなく、自分でもびっくりするくらい冷静にその事実を受け止めたわたしとは違い、クリフトは目に見えて動揺し、まるで明日世界がひっくり返るとでも言われたかのように身も蓋もなくおろおろとした。

わたしは少しむっとした。

いとしい妻が、その身に二人の愛のあかしである大切な命を宿したと聞いたら、夫として普通は、なにを置いても手放しに喜ぶものなんじゃないだろうか。

だが城で育ったわたしとは違い、教会という人間の生と死に最も関わる場所で生きて来たクリフトにとっては、出産は単なる喜びではなく、ともすれば母親とその子供両方の命すら奪ってしまう危険もある、神が女性に授けた途方もない試練なのだという認識が誰よりも強いらしかった。

……でも、だからと言って。

「お前が産むわけじゃないでしょ!」

この十ヶ月間、堪忍袋の緒が切れて、一体何回そう叫んだか解らない。

クリフトが礼拝堂にこもり、神に祈りを捧げる時間はそれまでの倍以上の長さに伸びた。

新国王としての公務をこなしながらも、なにかと理由をつけては玉座を離れ、わたしの所へやって来てはどこか痛くはないか、調子は悪くないか、何か変わった感覚などはないのか。

食事はちゃんと出来ているか、睡眠は取ったか、着ているものは苦しくないかと、まるで濡れたヒナの毛をついばむカワセミのようにせわしない口調で、矢継ぎ早に質問を繰り返す。

思わず、ええい、うるさーい!と怒鳴り返してしまいそうになるのだが、切れ長の蒼い目が今にも泣き出さんばかりの必死さをたたえているのを認めると、これもクリフトの深い愛情のなせるわざなんだからと、わたしは渋々溜飲を下ろす。

勿論わたしだって、初めてのこと。

少しも不安がないわけじゃない。

けれど毎日毎日、どうしよう、心配だ、大丈夫だろうかと繰り返してはわたしの周りを右往左往しているクリフトを見ていると、ばしゃばしゃと波の弾ける水面を前にして、逆に心が平静を取り戻して行くように、不思議と不安や恐れはどこかへ遠ざかる。

むしろ、大丈夫にきまってるじゃない、わたしを誰だと思ってるのよと、ひまわりみたいな逞しい自信が健やかに心に根を張ってゆく。

でも、今ならわかる。

きっとクリフトが、そうしてくれたんだ。

不安も悩みも苦しみも、全部クリフトがわたしの代わりに背負ってくれたんだ。

そんなふうにして十ヶ月、永遠のように長くて短い時間がまるきり正反対の心境で過ごすふたりの間を流れ、ようやく目の前までやって来た、新たな命が降り立つ日。

支えてくれるのは、泰然となにごとにも動じない、誰よりも頼もしい父親……という訳にはいかないけれど、

未知の恐怖にひっきりなしに嗚咽を洩らし、青ざめて震えながら、それでもクリフトは必ずわたしのそばにいてくれる。

新しい命を手にする瞬間を、誰よりも強い祈りで守ろうとするように。

「はあ……」

ようやく呼吸を静め、頬に伝い落ちた汗のしずくを手の甲で拭うと、クリフトはまるで何百歳も年老いてしまった老人のように、長く深いため息をついた。

「こんな気持ちがいつまで続くのかと思うと、たまらない。

身が裂かれるようなこの不安に比べるものなど、世界中になにひとつありません。

今感じているこの恐怖に比べたら、あの天空の塔など、鼻歌を歌いながら片足で一万回登ることが出来ます」

「そんな宣言いらないわよ」

わたしはうんざりして言った。

「ほんっとに、怖がりの心配性なんだから。産むのがお前じゃなくてわたしで本当によかったわ。

もしお前が代わりにそうするんだったら、一体どんな大騒ぎになっていたことか、想像に難くないわね」

「そう、それです!」

突然クリフトが勢いよく叫んだので、わたしは驚いてのけぞった。

「な、なあに」

「もしもわたしが貴女の代わりになることが出来たのならば、こんなとめどない恐怖が胸に生まれることはなかった。

この世で一番大切なアリーナ様のお身体が痛み、命をおびやかす苦しみを負うことになると思うからこそ、こんなにも激しい不安が……う、ううっ」

「ちょっと、いいかげんにえづくのは止めなさいったら」

言いながらわたしは、思わず顔を赤らめた。

「お前がわたしに代わるなんてこと、出来るわけないでしょ。

あれは男の人には絶対に耐えられない痛みなんだって、カーラは言ってたわよ」

「それは違います。わたしは貴女のためならいつだってこの身のすべてを投げ出せるのですから。

たとえどんな激しさであろうと、愛するアリーナ様の痛みをこの身に負うのなら、わたしは誓ってなんだって耐えられる」

咳込んで涙目になった瞼をこすりながら、こともなげにクリフトが言ったので、わたしはついにかあっと耳まで真っ赤になった。

クリフトのすごいところは、いつも控え目で出過ぎた発言をするのを嫌がるくせに、時折ものすごく直截な言葉をさらっと口にし、

しかもそれがお世辞や見せかけの台詞ではなく、彼の真実の想いが込められている、みずみずしい魂からの言葉だということだ。

きっとほんとに、なんだって耐えちゃうんだろう。

わたしのためなら。


そして、もうすぐこの美しい世界に舞い降りる、わたしたちふたりのいとおしい命のためなら。


「……あ」

わたしは眉をひそめ、下腹部にそっと手をあてた。

「痛い、かな?

もしかしたら……来たかも」

聞くとクリフトは凍り付き、まるで雷に全身を打たれたようなこわばった顔をした。

だがそれはほんの一瞬のことだった。

「そうですか。では、早急に城へ戻りましょう。

アリーナ様、失礼致します」

身に着けている王衣の裾をさっと払うと、今までの動揺が嘘のように俊敏なしぐさで、わたしの背中に腕を回して軽々と横抱きに抱きかかえる。

広い胸にしっかりとわたしの体を引き寄せ、そのまますたすたと歩き始めたクリフトをわたしは驚いて見上げた。

「アリーナ様、大丈夫ですからね」

クリフトは唇を柔らかく持ち上げ、安心させるように微笑んだ。

「怖くなんてない。

わたしがずっと、ずっとおそばにいます。

なにがあろうとも必ず、貴女はわたしが守るから」

「うん」

「ほら、見て下さい」

「え?」

彼が指差した空を、わたしは眩しげに瞳を細めて振り仰いだ。

「わぁ……」

あまりの美しさに、思わず唇から歓喜の声がこぼれる。

そこに広がるのは、訪れたばかりの春の空に溢れる黄金色の光。

光と共に聞こえるのは、幸福の煌めきが泳ぐ空の歌。

大地の香りを乗せて、彼方まで吹き抜ける風の歌。

純白の雲が踊る歌。

それこそ、命の歌。


「アリーナ様」

微笑みを乗せた蒼いまなざしが優しくわたしを覗き込んだ時、彼の声に重なって、どこからか確かな命の息吹きがそっとなにかを囁いた気がした。

そしてわたしとクリフト、ふたりはもうすぐその声を聞く。



「アリーナ様、この空の輝きをまた見つけに、必ずまたここへ来ましょう。

わたしと貴女、晴れた日に手をつないで、大地を駆けて綺麗な花をたくさん摘んで。




そう、次はふたりじゃなく三人で一緒に、ね」





―FIN―



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