命の歌
風を感じたい。
光を感じたい。
子供のように腕を伸ばして緑の広がる大地を、太陽の下を思い切り駆け回りたい。
でも、それはあと少しだけ我慢。
だからわたしは目を閉じて、深く息を吸い込む。
輝く春の風に踊る若草の匂いと、木々のざわめきの歌を耳にしたら、やがて指先まで新しい命の煌めきは満ちて、
わたしは身体の底から込み上げる喜びに、あの空も海も全部飛び越えて世界じゅうに響き渡るほどの声で、
叫ぶ。
「早くーーー、
出てこーーい!!」
そんなわたしを、木立ちの向こうから必死で追いかけて来る人影がある。
背が高くて、すらりと手足はしなやか。立ち姿は北の大地に息づく凛とした白樺の木に似ている。
なのにいつも自分の容貌を持て余しているような、どこか困った目をして、まるで目立つことを恐れるように少し身体を屈めながら懸命に手を振り、わたしの後を追って来る。
クリフト。
わたしが見つけた、この世でいちばんの宝物。
「ここにいた、アリーナ様」
瞳を合わせると、息を切らしながら上気した頬を緩ませて、彼は額に滲んだ汗を拭いながらはあはあと呼吸を整えた。
「庭園じゅう探し回っても見つからないと思ったら、まさかこんなところまで来ていらしたとは。
もう城から出てはなりませんと、あれほど申し上げたでしょう」
「ごめんなさい」
わたしは素直に謝った。
「ここのところずっと、安静にと言われて横になっていたから、なんだか息がつまっちゃって。
今朝はずいぶん体も楽だし、きっとまたこれからしばらく自由に外へは出られなくなるでしょ。
これで見納めだと思って、ついこっそり抜け出して来てしまったの」
「その……、大丈夫なのですか」
途端に彼の声音が、不安げにおぼつかなくなった。
「痛みや、怠さとか……何かお身体に異変を感じるような出来事は」
「全然ないわ」
わたしはあっさりと首を振った。
「宮廷医師のルナスは、この様子では間違いなく今日か明日だろうって言っていたの。
でも何もない。針で刺されるようなちくちくした痛みもなければ、身体の下へと降りて来るようないよいよだと知らせる感覚もないの。
さすがのわたしも今朝からどきどきしていたんだけれど、あまりに何の変化も訪れないものだから、なんだか力が抜けちゃって。
もう今はなんの緊張もなければ、怖くもないわ。むしろわくわくしてる。
アサガオの蕾が開くのを今か今かと待ってるみたいに、胸がうずうずするような期待でいっぱいなの」
「そ、そうですか……」
わたしの屈託ない明るさに、彼は困惑を隠せない様子であいまいに頷くと、突然うっと呻いて顔をそむけ、身をふたつに折って激しく咳込んだ。
「ちょっと、どうしたのよ。大丈夫?」
「も、申し訳ありません」
近付こうとするわたしを手で制すると、その場にしゃがみ込んでぜいぜいと苦しげな嗚咽をもらす。
やがて発作のような激しい咳がおさまり、乱れた息を何度も深呼吸で整えて、クリフトはよろめきながら顔を上げた。
わたしはぎょっとした。
さらさらの前髪のかかる額には尋常でないほどの汗が浮かび、顔色は真っ青で血の気が失せている。
「お前、どこか具合でも悪いの」
「違うんです」
クリフトは言った。
いつも穏やかなその声さえ、まるで寒くてならぬ人のように弱々しく震えている。
「今朝からずっとこうなのです。
どうにもその……緊張と、き、恐怖に耐えられなくて」
「恐怖」
わたしは呆気に取られた。
「どうしてお前が恐怖するのよ。頑張るのはわたしでしょ。
お前なんか全てが済むのをじっと待っているだけで、怖いどころか痛くもかゆくもないじゃないの」
「ア、アリーナ様は全然解っていらっしゃらない」
クリフトはこめかみをひきつらせて言った。
「これほど恐ろしくて、心臓が壊れてしまいそうなほど不安になる出来事は他にありは致しません。
このクリフト、この世に生まれて二十余年、高い所以外でこんなにも怖いと思ったことは……」
そこで言葉を切ると、また堪えきれなくなったように咳込み、ううっと呻いて胃のあたりを押さえる。
「大丈夫?」
「い、いえ……あんまり」
わたしはため息をついた。
「全く、わたしに逆に心配をかけてるのはお前のほうじゃない。
ほら、まず深呼吸して。目を閉じて肩の力を抜いて、ゆっくりと息を整えるのよ」
「はい」
クリフトは素直に頷いて、目を閉じてすうはあと深呼吸を繰り返した。
「どう?」
「は……だいぶ、楽になったような気がします」
「まったく、もっとしっかりしてよね。こんなことじゃ困るわよ。
あと少しでお前は」
その時わたしが続けた言葉に、クリフトは強い喜びと、それと同じくらい大きな不安の入り交じったなんともいえぬ複雑な顔をした。
「父親になるの。お父さんに、なるんだからね」