記憶の海に
「もしも、わたしが貴女の前から突然いなくなっても、貴女はわたしのことをちゃんと覚えていて下さいますか」
「な、何?やだな、クリフト。急に冗談は止めてよ」
アリーナは笑ったが、床を跳ね返るクリフトの表情は動かないままだった。
「冗談ではありません。いつかお聞きしたいと思っていたのです。
このクリフト、神官でありながら魔道の絶対なる禁忌に触れた者。卑しき人間の身でありながら、生と死を司る呪文を同時に得てしまった者です。
生の始源が死を喰らい、死の混沌が生を飲み込む。生死の魔法を共存させる限り、長くは生きられないでしょう」
主人の視線を避けるように、顔を俯かせたままクリフトは言った。
「相反する生死の力を同時に得ることは、諸刃の剣を身に突きたてること。
わたしは覚悟の上でそれを覚えた。そうせねばあの苦難の旅で、もはや宿願は果たせぬと思ったからです。
今も後悔はしていない。神のもとへ旅立つのは決して怖くありません。
ただ……あなたにだけは、わたしを忘れてほしくない。いつまでもわたしのことを、貴女が覚えていてくれたら、と」
水面に落ちた波紋のように広がる静寂。
ずっとわだかまっていた思いを口にすると、クリフトは告白の含羞と同時に激しい後悔に襲われた。
(馬鹿だ、わたしは。姫様がお困りになっているじゃないか)
(なんと愚かなのだろう、わたしは)
(わたしは今、ここで姫様に告解している)
(誰にも打ち明けられなかった自分の罪を。魔道の禁忌を犯したという恐怖を、誰よりも大切なアリーナ様にそれを告げることで、楽になろうとしている)
苦く強張った痛みが、胸に満ちた。
(格好悪いことこのうえない。アリーナ様を命を賭してお護りするなどと言っておいて……ほんとうは、わたしは)
愛する人に自分を守ってもらいたいと、どこかで望んでいるのではないか?
「馬ーーーっ鹿ねえ!クリフトってば」
そのとき、重い沈思を鮮やかに破ったのは、呆れたようなアリーナのひと声だった。
「自分がいつ死ぬかなんて、絶対に誰にも解らないわよ。それはいくら大好きだってどうにもならないわ。
お前が二百歳まで生きたいと願ったって、わたしには叶えてあげられないもの」
「……は、はい」
「ねえクリフト、神様が定めた宿命は、変えようがないことだってあるのかもしれない。
わたしたちは永遠には生きられないし、空気を吸ったりごはんを食べなきゃ死んじゃうわ。
でもわたしには、お前の運命を変える力ならあるわよ!」
アリーナは朗らかに笑って、クリフトの胸に飛び込んだ。
「大好きだ、一緒にいたいって気持ちがあれば、人はどんな苦しみだって乗り越えられるものなの。
死の魔法が大切な命を削ってしまうのなら、そんな魔法、さっさと捨てちゃえばいいのよ。
人間の記憶は二十秒しか持たないんでしょう?だったらその引き出しに恐ろしい呪文を押し込んで、代わりにわたしが決して消えない素敵な思い出を、お前にたくさんプレゼントするわ。
そしてもし、いつかお前の体が魔法に蝕まれる時が来たとしても」
太陽のような生命力を湛えた声音が、クリフトの耳を打った。
「わたしが助けてあげる。
わたしが必ず、お前を助けてあげる。
もしもまたあの時みたいに、パデキアの根を飲めばいいって言うのなら、わたしは何百万回でも、世界の果てまでも探しに行くわ」
重ねた細い身体が強烈な熱を放ち、琥珀の瞳が火のように輝く。
クリフトは息を詰めてアリーナを見つめると、堪えきれなくなったようにきつく抱きしめた。
ああ、そうだ。
告解しても、いいのだ。
恐れなくてもいいのだ。
だってわたしの神は、ここに在る。
「あー!クリフト、もしかして泣いてるの?」
「ま、まさか!違いますよ」
感情の昂ぶりが気恥ずかしくて、慌てて反対側を向いたら、アリーナがいたずらそうに見上げて来た。
「ね、可愛いよ、そういうところも」
「ご……ご冗談を」
「わたしたち、ずっと一緒だよ、クリフト」
アリーナは囁いた。
「もしもどちらかが先に体を離れても、必ずまた一緒にいられるよ。
お前が好きだっていうことを、わたしの命にちゃんと記銘するからね」
「正拳突きや蹴りで、ですか?」
「それもいいけど、もっと他に方法があるでしょ」
クリフトは首を斜めに傾けた。
唇と唇が、花びらが触れるように合わさる。
「……もっと、他に?」
蜂蜜色の長い髪に指が滑り込んで、瞳の熱で欲しいものが同じだと解った時、ふたつの体は折り重なって、ため息と同時に声にならない言葉をそっと手放した。
告解は終わる。
蒼と琥珀の双眸が伏せられ、疲れたふたりが幼い子供のように身を寄せ合って眠ると、改悛は去り、想いを湛える記憶だけが残る。
愛するゆえに、留めたいと思うがゆえに、終わらないもの。
わたしたちふたりの記憶は、久遠の時を越えて続く。
-FIN-