記憶の海に



晩春の宵はまだ少し青紫のベールを落とすのが早くて、それでも近づいて来る夏の足音に、心は弾む。

アリーナは暖かい季節が大好きだ。

(庭園で武術の鍛錬をして、ガゼボでご飯を食べて、夕暮れには森へお散歩に行って)

辺りがすっかりオレンジ色に染まるころには、その日の勤行を終えた大好きな人が、

わたしのもとへやって来る。







~記憶の海に~








「失礼致します、姫様」

扉が開くと、こめかみを押さえたクリフトが力ない様子で歩いて来たので、アリーナは眉を上げた。

「どうしたの?クリフト。顔色が悪いわ。ずいぶん疲れてるみたい」

「申しわけありません。今日は、ずいぶんと告解が多かったものですから」

クリフトは青ざめた顔をそっとほほえませた。

告解……赦しの秘蹟、サクラメントとも呼ばれる神に誓う改悛の儀式。

教会にやって来た民が礼拝堂に設置された四角形の告解室に入って、狭い空間の中、聖職者に自らの罪を告白するのだ。

一体どんな人間がどのような類の懺悔を耳にするのか、好奇心からアリーナは何度か尋ねてみたことがあったが、なにを聞いてもクリフトは黙って微笑むだけで、愛しいあるじにも決してその内容を明かそうとはしなかった。

告解を聞いた日のクリフトは、いつもより口数が少なくなる。

アリーナと過ごす間にも、ふとまなざしが宙を彷徨い、己れが引き受けた負念が身の内から洩れていないか確かめている。

朝から晩まで四六時中、他人が犯してしまった罪を受け止め続けること。

知らない誰かの憎しみや悲しみ全てを、代わりに背負ってあげること。

それはどんな気持ちがすることなのだろう?

(少なくともわたしだけは)

アリーナはこっそり考えた。

(クリフトに、ごめんなさいを言わなくても済む人間でなくちゃならないわ。

つまり間違ったことをせず、いつも清く正しい心で生きて行くこと)

「暗記しておくようにとお渡しした歴史書は、お読みになられましたか」

「あ、ごめんなさい。まだ」

言って、アリーナは真っ赤になった。

「も、もう言っちゃった」

「なにがですか?」

「なんでもないの!」

アリーナは慌てて首を振った。

「今から読むわ。すぐに覚えるから待ってて。最近、暗記の仕方にもコツがあるってことがわかったのよ」

「コツとは、どのような」

「言葉ひとつひとつに、体の動きをつけるの!武術を応用してね」

アリーナは得意げに言って、右の拳を振り上げた。

「じゃあ試しにクリフト、答えてみて。

聖祖サントハイムがこの国を興すにあたって、まず第一に広めたのはなんだったかしら?」

クリフトは面白そうに目を見開いて答えた。

「農業です」

「そう!農業の時はこれよ。右手で正拳突きするの。見てて!

の、う、ぎょ、う!」

「ならば姫様、続けてお伺いします。その際に聖祖が大変重用した、ある生き物とはなんでしょう。

これを上手く利用することによって、北方の荒野だったサントハイムはあっと言う間に肥沃な富土となった」

「それも、左の正拳突きで覚えてるわ。

こうよ。ミ、ツ、バ、チ!」

「御名答です。受粉を促進してくれるミツバチを多く放つことによって、果樹園にも畑にも豊かな作物が実った。

貴い始祖の御業をきちんと覚えていらっしゃるのは、素晴らしいことです」

クリフトは笑いをこらえて言った。

「ですが姫様は勉学のたびに、机に向かいながらそうして拳を振るうおつもりですか」

「勿論そうよ。だけど、問題は蹴りなのよね。

ちゃんと立ち上がって蹴らないと、覚えた言葉も浮かばないと思うんだけど、勉強中に席を離れたらブライはきっと怒るだろうし」

「蹴りだけでなく、正拳突きにも恐らく物言いがつくと思いますよ」

クリフトはついに肩を揺らしてくすくすと笑い、笑顔を収めると手を伸ばしてアリーナの頬に触れた。

「アリーナ様、われわれ人間には想像力という武器があります。体の動きではなく、心で突き、蹴りを打つといい。

形ある想像が連鎖となって、知識の海に沈んだ記憶を必ず呼び起こすことでしょう」

「心の中で?」

「そう」

クリフトは穏やかに頷いた。

「古来より、覚えたい物事を形に置き換えて記憶することを、記銘、と言います。

情報を符号化して脳に刻み込むことは、科学者の間でも古くから提唱されていること。

人間は通常記銘しない限り、一度に五つから九つまでの記憶しか持てないと言われている。この数的範疇を、科学者の間ではマジカルナンバーと呼びます。

そしてその保持時間も、理論上ではたったの二十秒だけだと」

「ええっ、さすがにそれはないわ。わたしだって五個の言葉くらい、二十秒以上は覚えていられるわよ」

「漠然とした反芻ではなく、聞いた直後に前触れなく正確に繰り返すことが出来るという意味においてです。

たとえば姫様は、わたしが今から申し上げる言葉をすぐに反復出来ますか?」

クリフトは呪文を詠唱するように言った。

「桔梗、芍薬、甘草。

桂皮、胡椒、樟脳、大黄、肉豆冠、良姜」

突然の難しげな単語の羅列に、アリーナは目を白黒させた。

「わ……わかんない」

「以前旅のさなかで、希有なほど優れた記憶能力を持った少年と出会ったことがありましたが、それはごく特殊な一例。

通常人間は、ふと何気なく目にしたものや耳にしたものの記憶を、水が流れるように忘れ続けているのです。

覚えておくためには、先ほど申し上げた記銘のように、違う何かに置き換えて記憶に留めること。

つまり武術の動きに当てはめた姫様のお考えは、まことに理に叶っているのですよ」

「ただ、問題は実際にその場でそう出来るかってことね」

「たいていの人は試験中に突きや蹴りを繰り出されたら、なにかお怒りなのかと驚いてしまうでしょう。

そのためにも、心に記憶を形として住まわせることが大切なのです。

……たとえば、姫様」

クリフトはほほえんでアリーナの前に膝まづくと、深く頭を垂れた。
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