時空かくれんぼ
その時わたしは決して物音を立てたり、眠る彼女に触れてしまったわけじゃない。
だが細い身体に秘められた武術家の血は、野性のネコのように他者の気配に敏感だった。
「……」
まだ潤んだまなざしが徐々に焦点を結び、挑むように正面から見据えて来る。
数秒のあいだ凝視して、目の前にいるのがわたしだとようやくわかると、その瞬間アリーナ姫の瞳は、見ているこちらが思わず息を飲むほど、鮮やかに色を変えた。
強情に引き結んだ唇から、言葉は少しもこぼれていない。
けれどわたしには色彩のひとつひとつが訴えかけて来るものを、手にとるように理解することが出来た。
彼女の瞳が、喋っているのだ。
(遅いよ、クリフト)
(どうしてここがわかったの?誰にも言ってない秘密の場所なのに)
(どうせお前も、わたしのことを叱りに来たんでしょう)
(来なければよかったのに)
(迎えになんて来なくても、わたしは平気なのに)
(……嘘)
(本当は待ってた)
(涙が渇いてしまうまで、ただお前のことを)
(クリフト)
(わたしはずっと、お前を待っていたのよ)
「やっと見つけました」
わたしは言った。
「こちらで蝶を見ませんでしたか?真珠のように輝く、不思議な紫色の」
すると何故かアリーナ姫は驚いたように目を見開いた。
「……見てないことも、ないわ」
「この中に入ったはずなんですが、どこに行ってしまったんでしょう」
「さあ、どこかしら」
曖昧にうなずくと、指で頬を払って涙の痕をかき消し、ぼそぼそと呟く。
「……やり過ぎたの」
「え?」
「やり過ぎたのよ。反省してるわ。
わたしのことはかまわないけれど、お母様を侮辱されたのがどうしても許せなくて……。
でもなにもあんなふうに怒ることはなかった。わたしがいけなかったの」
「そうですね」
わたしは微笑んだ。
「鍛えた姫様の拳は、鋼鉄すら砕く伝説のオリハルコンの刃のようなもの。
魔物ですら一撃で死に至らしめてしまうその威力、言わんや弱き人間においておや、です。
例えどのような理由があろうとも、市井の民に拳を振るうこと、絶対にまかりなりません」
そこまで一息に言ってから、にっこり笑って片目をつむる。
「……と、ブライ様なら仰せになるところでしょうが、あいにくわたしはまだまだ修行が足りぬゆえ、こう思っています」
「なによ」
「よくやりました。人にはどうしても譲ることの出来ぬ、大切な思いや誇りがあります。
貴女はそれを守ろうとした、それだけのこと。
ただ正拳突きは、願わくば一発だけ。それ以上は教師たちの今後の心穏やかな日々のためにも、ご法度ですよ」
「怒らないの」
「怒られたいのですか」
「そうじゃないけど……」
うつむくアリーナ姫の栗色の髪を、わたしはそっと撫でた。
「貴女の気持ちがわかるのです。
わたしにも……何にかえても絶対に守りたいものがあるから」
アリーナ姫はわたしを見上げた。
「……ありがとう、クリフト」
鳶色の瞳に漂う、海のように深い自由と孤独。
彼女の笑顔はいつも淋しさと背中合わせだ。
それでも太陽を目指そうとする、彼女の翼を押し上げる風にわたしはなれるだろうか。
迷い戸惑う暗闇を照らす星明かりに。
疲れて眠る身体を温める、柔らかな毛布に。
そうなる時が来るまで、わたしは泣きながら隠れるあなたを何度でも何度でも、
探す。