Suger George


風立つ桃色の春の日射しは今日も柔らかく暖かい。

あの長かった戦いに次ぐ戦いの旅がようやく終わって、人々の戻ったサントハイムに穏やかな平和が訪れ、早や一月。

窓から流れ込む小鳥のさえずりと、漂う花の香りに甘い安らぎを誘われる、いつもの午後のお茶の時間。

平和に凪いだ青空に嵐を落っことすように突拍子もないことを言い出したのは、


やはり彼女だった。






~Suger George~





「ねえ、情事ってなあに」

クリフトは飲みかけの紅茶をぶっと吹き出した。

「ちょっと、なによ!汚いわねえ」

「も、も、申し訳……」

「わたしの服にまでかかっちゃったじゃない。

まったくもう、お前はどうしてそうそそっかしいの」

「ま、まことに申し訳ありません」

クリフトは慌ててアリーナ姫の足元にしゃがみ込み、衣服の裾を手拭いで丁寧に擦った。

「これで大丈夫でしょうか」

「うん、平気。ありがと」

アリーナはにっこり笑った。

「でね、クリフト。

わたしが聞きたいのは、情事って一体なにかっていうこと……」

「う、厩番にいらっしゃいましたね、確か!テンペ出身のジョージさんが。

動物の心を理解するに長けた彼の献身的な世話に、馬たちもずいぶんと気を許し、今ではジョージさんの手からでないと餌を口にしない者まで現われたとか。

犬を始め、動物が苦手なわたしにはとても羨ましいお話です」

「厩番のジョージ?」

アリーナは目を丸くした。

「情事って、人の名前のことなの?」

「えっ、違うのですか?」

クリフトはぎこちなく驚いてみせたが、語尾がしゃっくりした時のように裏返ってしまった。

(いつもこのお方の口からは、びっくり箱のように何が飛び出すかわからないけれど……、

また今度は、一体何をおっしゃり始めたんだ?)

「そう……厩番」

アリーナは難しい顔をして考え込んだ。

「だとしたら、さっぱり意味が解らないわ」

「な、なにがでしょう」

「マーニャが言ってたの。恋人同士になったからには、いつか必ずとろけるように甘い情事を経験するものなのよ、って。

そうしてこそ初めて、ふたりは本当に愛し合っているのだと解り合えるんですって」

アリーナの丸い頬が、ぽっと桜色に染まった。

「それでその……わ、わたしたち、一応今は恋人同士っていうか……そうでしょ」

つられてクリフトも赤くなった。

「はい」

「だからわたしたちも、きっと情事を経験しなくてはならないんだと思うの。

わたしはお前ともっと解り合いたいし、もっと仲良くなりたいし、

それにあ、愛し合いた……」

目と目が合うと、アリーナは耳たぶまで真っ赤になった。

「やだな、なに言ってるのかしら、わたしったら。

とにかく、クリフト」

「はい」

「そういうわけで、わたしたちにもそろそろ情事が必要なんじゃないかと思うのよ。

とろけるように甘いっていうから、新種の蜂蜜かなにかだと思ったんだけど、まさか厩番の名前だなんて。

同じサントハイムの民として、これからは彼とも仲良くしなさいってことかしら?」

「貴き王女であらせられるアリーナ様が、厩番にまでお目を届かせるのはとても素晴らしいことだと思いますが」

クリフトはすっかり当惑して、言葉を濁した。

「おそらく、そういう意味ではないと」

「なによ、お前知ってるの?情事がなにかって」

「いっ、いえ!」

クリフトは慌てふためいて首を振った。

「わたしには全く、なんのことやら」

「それじゃ解らないふたりが話してたって、埒があかないわよね。

百聞は一見に如かずだわ。わたし、今から厩に行ってジョージにどうすればいいのか聞いて来る」

「待って下さい!」

クリフトは焦って、走り出そうとしたアリーナの肩を掴んだ。

「なあに、お前も一緒に来る?」

「い、いえ、そうではなくて……アリーナ様」

鳶色の無垢な瞳がくるりと瞬いて、クリフトをひたむきに見上げる。

途端に胸がずきんと疼いて、息苦しさをこらえながらクリフトは言った。

「厩番ではなくて……わたしが教えて差し上げます」

「お前が?」

アリーナは眉をひそめた。

「だって、お前も解らないって」

「わ、解りません。わたしにも……くわしくは」

クリフトは俯いて、かすかに声を震わせた。

「ですが、わたしたちは今はまだ解らなくてもいいような気がするんです。

解らなくても……互いになにひとつ、そうするすべさえ知らなくても、

貴女とわたしの心が同じ方向を向くなら、想いが同じ形で重なろうとするなら、きっと、

きっと………いつか」

「………」

自分がとても馬鹿なことを言ってしまったような気がして、クリフトは口をつぐんだ。

するとふいにアリーナの手が伸びて、クリフトの頭を抱きかかえた。

頭ふたつ分ほども身長差があるふたりが寄り添うにはいつも片方が身を屈めて、もう片方がうんと背伸びしなくてはならなくて。

「わかったわ」

アリーナはクリフトの耳に唇を寄せた。

「今はまだ、それを知るのはわたしたちには早いのね」

「はい」

「でもきっと、いつか教えてくれるのね。お前がわたしに」

「は、はい」

「そしてそれは、とろけるように甘いのね」

「それは」

たじろいだクリフトの喉が思わずごくん、と鳴った。

「……わ、わたしたち、次第かと」

「すごく楽しみにしてるわ。じゃあね!」

小鹿のように飛び跳ねてその場を去ったアリーナの、たなびく長い髪を目で追いかける。

「……」

クリフトは小さなため息と共に、高鳴る胸にそっと左手をあてた。

出会ってひとめで恋をして、名前を呼ぶのすら苦心して、ふたりきりになれば何を話そうかと頭を抱え、

ようやく手をつなげたら、今度は離すタイミングが掴めずに掌じゅう汗にしたり、小さな身体を抱き寄せるのに腕を回す場所だって今だによくわからない。

それでも一歩ずつ踏み締めて来た階段は、ちゃんとふたりを、恋人たちだけが見つめる黄金の景色の前に押し上げている。

子供のような敏捷さで、もう庭園を駆けている彼女の姿を窓越しに捉えると、風にまぎれて誰かが囁いたような気がして、クリフトは空を見上げた。

(大丈夫、焦らないで、怖がらないで。クリフト)

(あなたと彼女もいつか知る)

(恋人たちのその秘密)

(蜂蜜でもない、厩番でもない)

恋するふたりが必ず手にする秘密。


まだ知らないそれは、どんな味?


Sugar George、


さあ、甘いか、酸っぱいか。






―FIN―


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