彼とわたしの事情


「……ねえ、王様を辞めたいって思った事はある?」

「いえ、一度も」

わがままなお願いだけれど、みんなはもう少しだけ待っていて欲しい。

むせ返るような花の香りの中で、ふたり身体を寄せ合いながら、月夜の梟のさえずりのようにひそやかで親密な囁きを交わし合う、恋人達の時間が過ぎるのを。

「本当なの?わたしだけには、嘘をつかなくたっていいのよ」

「神のお導きによって、心より敬愛する法王様から賜った責務。

身に余る大任だと感じることはありますが、辞めたいと思ったことなど一度もありません」

「じゃあ、これだけはどうしても嫌だって思ったことは」

「嫌?」

クリフトは首を傾げた。

「そうだな、どうしてもと言うわけではありませんが、太刀持ちや護衛に小姓、侍従の方々、常に誰かが必ず傍に寄り添っている事でしょうか。

ひとりゆっくりと神に祈る時間を持つ事が出来ないと、とても落ち着かない気持ちになることがあります」

「確かにお父様は昼夜を問わず、いつも家臣たちに囲まれて毎日を過ごしていたわ」

「なにより驚いたのは、浴室にまで侍女の方が待機していた事ですね」

「なんですって!」

わたしは眉を吊り上げた。

「わっ、アリーナ様、いた、痛い!」

「クリフト、お前……王様になったのにかこつけて、よくも堂々と、そんなみだりがわしい事を!」

「ご、誤解ですよ!丁重に介助をお断り申し上げて、退散して頂きました」

「本当なのね!」

「当たり前じゃないですか!わたしだって、風呂くらい一人で入りたい」

「馬鹿ね、そういう問題じゃないでしょ」

「あ、でも」

「何よ」

「アリーナ様と一緒なら、嬉しいかもしれないな」

「ばっ、な、何を急に言い出すのよ」

「後で入りましょうか、一緒に」

「……考えておくわ」

「約束ですよ」

「もう、いい加減にからかうのは止めて!すっかり話が逸れちゃったじゃないの。

わたしが聞きたかったのはね、クリフトはサントハイム国王としての地位を疎んじたり、施政者として自由のない生活を送ることを、実は苦にしているんじゃないのかって事なのよ」

「疎んじるなど」

クリフトは思ってもみなかった事を言われたように、形の良い眉を上げた。

「確かに、最初にお話を賜った時は、一介の神官であるこの身にはあまりに分不相応であると、身体中が竦む思いでした。

ですが孤児であったわたしを教会に迎え入れ、心行くまで神学を学ばせて下さった法王様に、またこの愛すべき父なる聖サントハイムのしろしめす大地に、

この身を賭してご恩を返す比類なき機会を天より頂戴したのだと、神の奇なるお計らいに今はただ、深く感謝しておりますところ…」

「ああ、堅い、堅ーい」

わたしはため息をついて、首を大きく振った。

「一体何が言いたいのか、回りくどくてさっぱり解りゃしないわ。

クリフト、いくら王様だからと言って、時には下々に理解しやすいように、砕けた言葉を使わなくちゃならない時もあるのよ。

祭壇で告解を聞いてるんじゃないんだから、もっと肩の力を抜いて、小鳥に語りかけるように気楽に話しなさい」

「はあ」

クリフトは頭をかいた。

「以後、気をつけます」

「つまりお前は、王様でいることが全然嫌じゃない、そういうことなのね?」

「はい」

「じゃあ」

わたしはこほんと咳ばらいした。

「今ここで言ってみて、嫌じゃないって」

「嫌じゃない」

「ふうん、そうなの」

自分の声が高くなるのを感じながら、わたしは澄まして続けた。

「王様でいるということは、つまりその……わ、わたしの夫である限りずっと続いていく責務だけれど、その覚悟は出来ているというのね」

「勿論です」

クリフトは生真面目に顔を引き締めてうなずいた。

「無知な若輩ながら、この力の及ぶ限りサントハイムのために、精一杯尽力させて頂く所存……、あ、また堅苦しい言い方になってしまいましたね。

えーと、とにかく、ものすごく頑張るつもりだと言うことです」

「一生?」

「一生」

「でも、侍女とお風呂には入らずによ」

「はい、入らずに」

「もう嫌だ、こんな所から逃げ出して、神様のいる教会に戻りたいって思ったとしても?」

クリフトはわたしを見つめ、蒼い目を和らげて静かに微笑んだ。

薄暗い夜の部屋の中でも、その笑顔はまるで蛍が暗闇に描く軌跡のように、幸福な心が辿る美しい光を、鮮やかにわたしの目に映し出した。

「わたしには貴方のいる所が、神のいる所」

しなやかな腕がわたしを抱き寄せて、卵を抱く親鳥のように優しく包み込む。

「初めてお会いした幼い子供の頃から、貴方の事だけをずっとお慕いして参りました。

こうして神の御前で、その貴方と婚姻の契りを交わす事が出来た幸せを、わたしは何があろうと生涯決して手放す事はありません」

言葉が途切れると、困ったように何度もまばたきをして、わたしを覗き込む。

「……また、堅苦しいかな」

「そうね、また」

わたしは涙に気付かれぬように、急いで俯いた。

「でも、言いたいことはちゃんと伝わっているわ」

「アリーナ様は、そこにいるだけでわたしに、数え切れないほどの幸せをくれる」

抱き合うと温かい素肌が重なり、甘く香しい息が混じり合う。

髪を撫でる手や、伏せられた長い睫毛。愛おしくて息も出来ないほどだった。

「貴方がいればこんなふうに、石造りの部屋さえ輝く花園になる。

まだ言っていませんでしたね、こんなにも素晴らしい幸せを頂いて。


アリーナ様、ありがとう。

これからもずっとお傍にいさせて下さい、わたしの大切なお妃様」
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